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ミイラ製作のはじまり

 本書→43-45頁

 

 来月14日から国立科学博物館にて「大英博物館ミイラ展 古代エジプト6つの物語」が開催されます。私も監修者の1人として関わらせていただいております。特設ウェブサイトも今回は先王朝時代の記事を予定しておりましたので、エジプトにおけるミイラ製作の始まりについて解説したいと思います。 


 エジプトはほとんど毎日が晴天で乾燥した気候なので、あらゆる物は比較的よく保存されます。先王朝時代には死者は浅い土坑に屈葬で埋葬され砂で覆われたため、自然乾燥でミイラとなりました(写真1)。


△前3500年頃のミイラ

 これまで人工的に作られたミイラは王朝時代の初期になってから製作されたと考えられてきましたが、1997年にヒエラコンポリス遺跡の先王朝時代の墓地で、頭、首、腕を植物樹脂に浸けた亜麻布の包帯で包まれた女性の遺体が複数発見され、共伴した出土遺物の年代から前3500年頃(ナカダII期)に遡るものであることが判明しました。


 これにより、以前考えられていたよりもはるかに古い時代から、ミイラ製作が行われていたことが分かったのです。もっとも、遺体の部分が単に亜麻布に巻かれていたからといって、それがミイラ製作が行われていたと言って良いかどうかは議論が分かれていますが、興味深いことに女性の1人の喉が死後に切られていました。これはすでに当時においても、神話でオシリス神の肉体がセト神によってバラバラにされたように、儀式として肉体の分割が行われたことを示すのかもしれません。


△さらに前から始まっていたミイラ製作の実験

 さらに、オーストラリアのエジプト学者ジェイナ・ジョーンズによれば、ミイラ製作の技術はさらに古くバダリ文化まで遡るとのことです。彼女は、バダリ遺跡とモスタゲッタ遺跡の墓地の乾燥した分厚い包帯の塊を分析し、ヒエラコンポリスの例と同じように植物樹脂に浸けた包帯がすでに遺体に巻かれていたことを発見しました。そうすると、第1王朝よりも約1000年も前にミイラ製作の実験期間があったと考えられます。


△ミイラ製作技術の発展

 古代エジプトのミイラ製作の習慣は、肉体の姿を保存するために発展したものと考えられています。前三千年紀の初期のミイラの中には、単に漆喰(石膏プラスター)と顔料を塗り、遺体の外側だけが保護されて、内側は腐るに任せていたものがあります。より洗練された技術の発達によって、本来の肉体のより多くの部分が維持されるようになったのは最終的には新王国時代でした(写真2)。


 そして「大英博物館ミイラ展」で展示されるミイラが製作された第3中間期や末期王朝時代初期に、ミイラ製作技術は頂点に達しました。前5世紀の中頃にギリシャの歴史家ヘロドトスがミイラ製作技術についての詳細な記録を残した頃は、ミイラ製作技術がすでに衰退し始めていたと考えられています。おそらく、1つにはより多くの人々がミイラ化されるようになり、「大量生産」のニーズに応えようとしたためと推測されます。


 ミイラ製作は古代エジプトの埋葬習慣にとっては欠かせないものでした。死者の「カー(生命力のようなもの)」は食べ物を食べるために死者の肉体に戻らなければならなかったからです。遺体がなくなってしまうことは、カーが食料を食べられなくなってしまい、来世にたどり着く機会がなくなってしまうことを意味したのです。

 

「大英博物館ミイラ展」の図録には、「古代エジプトにおける墓と埋葬の変遷」という解説を寄稿させていただきました。続きはそちらをご覧ください。


写真1 ナカダII期の屈葬された自然乾燥ミイラ、大英博物館蔵 ©︎ Nozomu Kawai



写真2 ユヤのミイラ、新王国時代第18王朝、カイロ・エジプト博物館蔵 ©︎ Nozomu Kawai


大英博物館ミイラ展 オフィシャル・サイト


エジプト最古のミイラの防腐剤、証拠を発見、研究(ナショナルジオグラフィック)



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