「建築王」ラメセス
- nozomukawai
- May 24, 2022
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本文→202〜205頁
△「建築王」ラメセス
ギザの大ピラミッドに代表されるように古代エジプトの王は、数々の巨大建造物を造営したことが知られていますが、ラメセス2世(オジマンディアス)(図1)ほど自己顕示欲に満ち、エジプト全土に自らの名前を記した記念建造物を建てたファラオはいません。
ラメセス2世は「建築王」と呼ばれていますが、実際のところ中王国時代以降の歴代のファラオが建造したエジプト全土の記念建造物に自らの名前を刻ませているので、王自身が造らせた建造物は並外れた数とは言えません。ましてや、60年以上も統治したファラオの残した記念建造物を他のファラオのものと単純には比較できないのです。とはいえ、ラメセス2世自らも数多くの記念建造物を造営したのは疑いも無い事実であり、彼の足跡は、レバノンのビブロスからスーダンのナパタまでの1900キロに及ぶ地域に残されています。
ラメセス2世が積極的に建築活動を推進した理由は様々です。治世の初期は、王位継承の正統性を示すため、父王セティ1世が造営したアビドスの神殿、テーベ(現ルクソール)西岸の葬祭殿、テーベ東岸のカルナク神殿の大列柱室を完成させました。また、ツタンカーメン王以降のファラオが代々引き継いできた、アマルナ時代に荒廃したエジプト全土の伝統的な神々の諸神殿の復興事業を完了するために、自らの名前を刻んで修復および増築を行いました。
さらに、治世の後半には自らを現人神として神格化し、多くの建築事業を進めました。特に、その代表的なものは、世界文化遺産としても有名なアブシンベル大神殿・小神殿やテーベ西岸のラメセウムと知られているラメセス2世葬祭殿です。以下、ラメセス2の特筆すべき建設事業のいくつかを見ていくことにしましょう。

図1.ラメセス2世座像、テーベ、カルナク神殿出土(トリノ・エジプト博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai
△テーベ東岸、カルナク神殿とルクソール神殿
セティ1世のテーベ西岸の葬祭殿は、ナイル川を挟んでカルナク神殿の正面に位置する場所に造営され、それと対になるカルナク神殿の正面には大列柱室(図2)が造営されました。ラメセス2世は、この父王が開始した建築事業を完成させたのです。大列柱室の北壁や北半分の内部装飾はセティ1世の治世に完成しましたが、ラメセス2世は南半分の内部装飾と北壁の装飾を引き継ぎました。ラメセス2世は、父セティ1世の治世に内部装飾に採用されたレリーフ技法を高浮彫から沈め浮彫に替え、北壁には、セティ1世の数々の軍事遠征が記録された北壁の対称となるようにラメセス2世のカデシュの戦いを初めとする軍事遠征の戦闘の様子が装飾されました。この他に、ラメセス2世は、カルナク神殿の主神殿域の東側にオベリスクを備えた小神殿を建設し、東門の前に2基のオベリスクとスフィンクスを設置しました。
ルクソール神殿では、ラメセス2世は、アメンヘテプ3世が造営した大列柱廊の前に第1塔門(図4)と第1中庭を増築し、第1塔門の前には巨像とオベリスクを建てました。これらの建造物は、アメンヘテプ3世が建造した神殿の中心軸からやや東側に軸線がずれており、平面プランも平行四辺形になっています。これは、アメン神の大本山であるカルナク神殿からのスフィンクス参道の軸線に合わせただけでなく、西岸に造営した自らの葬祭殿(ラメセウム)の第1塔門に向けさせたためであると考えられています。

図2.カルナク神殿大列柱室。柱にはラメセス2世のカルトゥーシュ(王名枠)が彫られている。©︎ Nozomu Kawai

図3.カルナク神殿の第2塔門前のラメセス2世の巨像。足元にメリトアメン王女の像がある。この巨像は第3中間期にアメン第司祭パネジェム2世が名前を書き換えたことから、通称「パネジェムの像」と呼ばれている。©︎ Nozomu Kawai

図4.ラメセス2世が建造したルクソール神殿の第1塔門。右側のオベリスクは、現在パリのコンコルド広場に立っている。近年エジプト観光・考古省によりラメセス2世の全ての彫像が復元された。©︎ Nozomu Kawai
△テーベ西岸、ラメセウム(ラメセス2世葬祭殿)
新王国時代の歴代のファラオは、テーベ西岸の低位砂漠の耕地際に葬祭殿を建設し、墓を西側の岩山奥深くの王家の谷に造営しました。葬祭殿は、死せる王の祭祀を目的とする記念建造物と考えられていますが、当時の国家神であるアメン神の神殿でもあり、対岸にあるアメン神の総本山カルナク神殿と密接な関係がある記念神殿でした。そして、テーベ西岸の歴代のファラオの葬祭殿は、個々が独自のアメン神の館とみなされたのです。このことから、葬祭殿(Mortuary Temple)という名称よりも記念神殿(Memerial Temple)が適切であると主張する研究者もいます。
紀元前1世紀のギリシアの歴史家、シケリアのディオドロスによって、「オジマンディアス(ラメセス2世の即位名の一部ウセルマアトラーに由来する)の墓」と呼ばれ、200年前にヒエログリフの解読に成功したフランスの言語学者ジャン・フランソワ・シャンポリオンによってラメセウムと名付けられたラメセス2世の葬祭殿(図5)は、古代エジプト語で「ワセト(テーベ)と一体となる者(クヌムト・ワセト)」と呼ばれ、そこでは独自のアメン神が崇拝されましたが、実際はラメセス2世自身がアメン神として崇拝されたのです。死せる王がオシリス神となるように、テーベではファラオ達はそれぞれの葬祭殿のアメン神となったのです。
ラメセウムは、神殿の中心部の前に広大な中庭が造られたそれまでの王の葬祭殿とは異なり、巨大な塔門と列柱のある2つの中庭、列柱室を持つ構造が導入されました。その背後には新王国時代の典型的な神殿の構成要素である前室、聖船の部屋、至聖所が配されています。第2中庭から第2中庭に上るスロープ状の階段の南側には、現在では崩壊しているラメセス2世とネフェルトイリ王妃の巨像が置かれていました。
また、新たに列柱室の北側に葬祭殿に接して、「誕生殿(マンミシ)」が設けられています。第18王朝においては、王の誕生の図は葬祭殿や神殿内部に描かれていましたが、ラメセス2世は、王の聖なる誕生を記念する独自の建造物を造ったのです。誕生殿の奥には、ラメセス2世の母であるセティ1世の王妃トゥヤの礼拝室とラメセス2世の第1王妃ネフェルトイリの礼拝室が配されています。葬祭殿全体の平面プランは、ラメセス2世が増築したルクソール神殿の第1塔門と第1中庭と同じように、平行四辺形をしており、正面を東岸のルクソール神殿の方角に向けています。
これらの神殿の周囲には、日乾煉瓦でできた数多くの穀倉庫(図8)、倉庫、調理場、「生命の家」と呼ばれた書記学校が取り巻いています。大規模な倉庫群は、ラメセス2世葬祭殿が当時のテーベ西岸における経済活動の拠点であったことを示している。ラメセウムは近年遺跡の保存整備が進み、設置された解説板により、これらの施設をより良く理解しながら見学することができます。
なお、第2中庭にあったラメセス2世の巨像の上半身はイタリア人探検家ベルツォーニによって運び出され、現在大英博物館に展示されています(図5)。

図5.ラメセウム(ラメセス2世葬祭殿)、テーベ西岸 ©︎ Nozomu Kawai

図6.ラメセウムからベルツォーニが運び出した通称「若いメムノン」と呼ばれるラメセス2世の巨像、テーベ西岸、ラメセウム出土(ロンドン、大英博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai

図7.ラメセス2世のカデシュの戦いの図、テーベ西岸、ラメセウム ©︎ Nozomu Kawai

図8.ラメセウムに付属する穀倉庫の遺構。ヴォールト天井が残存している。テーベ西岸、ラメセウム ©︎ Nozomu Kawai
△アビドス
冥界の神オシリスの聖地アビドスには、中王国時代以来「空墓(セノタフ)」神殿とも呼ばれる葬祭殿が建設されました。空墓とは王が死後に復活する場所であり、テーベ西岸の葬祭殿がアメン神の神殿として造営されたのに対し、アビドスのセティ1世葬祭殿では、7つの至聖所を持ち、セティ1世、アメン・ラー神、ラー・ホルアクティ神、プタハ神、オシリス神、イシス女神、ホルス神が同じように祀られています。セティ1世葬祭殿の柱廊玄関の西側半分に息子であるラメセス2世が刻ませた「奉納碑文」(図9)によれば、ラメセス2世は治世第1年収穫季の第3月にアビュドスのセティ1世葬祭殿を訪れ、葬祭殿の正面と奥の部分が未完成であったため、自らが造営を継続させたということです。
実際にラメセス2世は2つの塔門と中庭の造営を継続し、柱廊玄関と第1列柱室の北壁の装飾を行っています。そこでは、自らの王位継承の正統性を示し、前述の奉納碑文に次のように記しています。「子供のわたしを腕に抱いて民衆の前に姿を表すとき、父(セティ1世)はこう言っていた。『この子を王にせよ。私がこの世にあるうちにそれが成就せんことを』」。
ラメセス2世自らもセティ1世葬祭殿の北西に自らの葬祭殿を建設しています(図10)。ラメセス2世の葬祭殿はセティ1世の葬祭殿より小ぶりで残存状態も良好ではないものの、石灰岩のブロックに施された彩色浮彫が所々に残されている。平面プランは、テーベの葬祭殿にならったもので、周柱式中庭、2つの列柱室、至聖所およびいくつかの礼拝室で構成されています。外壁には、「カデシュの戦い」を描いた場面が彫刻されています。現在は、米国のニューヨーク大学の調査隊が碑文の記録調査と発掘調査を行い、美しい報告書が出版されています。

図9.ラメセス2世の「奉納碑文」、アビドス、セティ1世葬祭殿 ©︎ Nozomu Kawai

図10.ラメセス2世葬祭殿のレリーフ、アビドス、ラメセス2世葬祭殿 ©︎ Nozomu Kawai
△その他の主要な神殿
ラメセス2世は、太陽神ラーの聖地であるヘリオポリス、創造神プタハの聖地で中心的な都市であるメンフィス、トト神の聖地であるヘルモポリスなど各地の主要神殿にて大規模な増築を行いました。
ヘリオポリスのラー神殿の全容は不明ですが、ヘリオポリスの遺跡ではラメセス2世の彫像が複数発見されています。メンフィスではプタハ神殿に置かれていた巨像が現在も博物館の中に横たわっています(図11)。また、現在大エジプト博物館の内部に置かれているラメセス2世像はメンフィスで出土したものです。最近では、ラメセス2世の「カー(生命力のような霊)」の彫像が発見されました。ヘルモポリスではナイル川の対岸の廃墟となったアマルナの神殿の石材を再利用して、トト神殿を増築しました。このほかにもラメセス2世はエジプト各地の神殿で建築活動を繰り広げましたが、治世の後半には建造物の築造技術の簡素化がみられ、国力の低下が窺われます。

図11.ラメセス2世の巨像。高さ10mを超える巨像が横たわって展示されている。メンフィス。©︎ Nozomu Kawai
△アブシンベル神殿とヌビアの諸神殿
ラメセス2世は、第18王朝のアメンヘテプ3世のように、ヌビアで自らを神格化して、神殿を奉納した神と共に祀らせています。ラメセス2世は、ベイト・アル=ワーリー、ゲルフ・フセイン、ワディ・アル=セブーア、アクシャ、デール、そしてアブシンベルの2つの神殿の計7つの神殿をヌビアに建設しました。これらは、アメン、ラー、プタハといった主要な神に捧げられた神殿ですが、テーベのラメセウムのようにラメセス2世自身がそれらの神々として崇拝され、彼の葬祭殿として機能しました。
これらのヌビアの諸神殿の中でもとりわけ大規模なものは、アブシンベルの二つの岩山の崖をくり抜いて築かれた大小二つの神殿です。二つの岩山は、それぞれメハとイブシェクと呼ばれ、古くから聖地として知られていました。メハの岩山には高さ約20mの4体のラメセス2世座像が正面に掘り出された大神殿(図11)が造られ、アメン神、ラー・ホルアクティ神、プタハ神の主要三柱神とともに神格化されたラメセス2世が祀られました。その北西のイブシェクの岩山には、ラメセス2世が王妃ネフェルトイリとハトホル女神が祀られた神殿が造られ増した。
大神殿は、「ラメセス・メリアメンの神殿」と呼ばれ、ラメセス2世の即位後まもなくして構想されたと考えられていますが、神殿の献呈式が行われた治世第24年までには完成していたとみられます。正面の4体の巨大なラメセス2世像の足下には、小さな王の家族の立像が彫られ、中央の入口上部の壁面の窪みには、「権力」(ウセル)と「真理」(マアト)を意味する記号を手にした太陽神ラー・ホルアクティの像が刻まれており、全体でラメセス2世の即位名「ウセルマアトラー」を表す判じ絵になっています。
入口を入ると王の巨像を象った8本の柱を持つ列柱室があり、その奥に第2列柱室、前室、そして至聖所が配されています。至聖所の奥壁には、祀られた4柱の神の像が彫刻されています。年に2度朝日が神殿の奥に射し込むようになっており、これら4柱の神像のうち冥界と関わりがあるプタハ神の像以外の3柱の神像が照らし出されます。
イブシェクの岩山に造られた神殿は、今日小神殿と呼ばれ、正面には高さ10mのラメセス2世の立像4体、ネフェルトイリ王妃の立像2体の計6体の像が掘り出され、足下には王子や王女が彫刻されています。小神殿は、大神殿を縮小した平面プランを呈しており、ハトホル柱のある列柱室、前室、至聖所から構成されています。至聖所の奥には、王を守護するハトホル女神の雌牛像が置かれています。
小神殿は昔から知られていましたが、大神殿は1813年にスイスの学者J.L.ブルクハルトによって発見され、1817年にベルツォーニが初めて内部に進入し、その存在が明らかとなりました。いずれの神殿も、1964年から1968年にかけて、ユネスコ(国連教育科学文化機関)のヌビア遺跡救済キャンペーンにより、4億ドルの費用をかけて、ブロックに切り分けられたのち、アスワン・ハイダム建設後にできたナセル湖の水の届かない65mも高い崖上に移築されました。1965年に日本で開催された「ツタンカーメン展」の入場料の一部も、このヌビア遺跡救済キャンペーンに寄付されたようです。

図12.アブシンベル大神殿(ラーホルアクティ神殿)©︎ Nozomu Kawai
△新都ペルラメセス
ラメセス2世は、北のデルタ地帯では、新都ペルラメセス(「ラメセスの家」の意)を建設しました。このペル・ラメセスは『旧約聖書』の「出エジプト記」に出てくる、ヘブライ人が重労働を課されたとされた「ピラメス」のことと考えられています。「出エジプト記」には労役を課されたヘブライ人がモーセに率いられてエジプトを脱出し、カナンの地をめざすことが記されており、その出発地がピラメスとなっています。しかし、出エジプトに関するエジプト側の記録は残っておらず、ハリウッド映画の「十戒」のように「出エジプト」の時のエジプト王がラメセス2世だったかどうかは明らかではありません。というのも『旧約聖書』は史実ではなく、モーセという人物や「出エジプト」の事件は歴史的に確証されていないからです。
ところで、近年のドイツ隊の調査によって東部デルタのヒクソスの都であったアヴァリス(現テル・アル=ダブア遺跡)の北東約2kmの地点にあるカンティールがペルラメセスであることが明らかとなっています。当時は神殿やオベリスクが屹立する壮大な都市でしたが、現在はその跡形もありません。というのも、神殿の石材やオベリスクは、第21王朝にそこから少し北にある同王朝の首都タニス(図13)に運ばれたからです。新都ペル・ラメセスについて、ラメセス2世時代の書記が次のように記しています。
「陛下は「勝利は偉大なり」と命名された都を自らの手で建設した。それはシリアとエジプトの間にあり、食料で満たされている。それは上エジプトのテーベを真似ており、その繁栄の長さはメンフィスのようである。太陽はその地平線から昇り、その中で沈む。誰もが本拠地を離れ、この都市の周辺に住み着いた。」
しかし、近年のドイツ隊によるカンティール遺跡での物理探査によって、ペルラメセスの都市の規模や神殿、王宮などの施設のプランも明らかになっており、ペルシウム支流の島に建設された巨大な都市であることが明らかとなっています。ペルラメセスは、要塞都市シレ(チャルウ)とパレスチナにつながる戦略的に重要な場所であっただけでなく、軍事拠点と国際交易の中心地でした。ペルラメセスでは、バアル、レシェプ、フウロン、アナト、アシュタルテ、ケデシュなどの西アジアの神々が信仰されたことが知られ、都市には多くの外国人が居住していました。彼らの中には高官になる者もいましたが、職人はエジプトへの技術移転に貢献しました。たとえば、ヒッタイト式の楯などの軍事技術が導入されたことが考古資料から知られています。2003年にはアッカド語の粘土板文書片も出土しており、ヒッタイト王トゥドハリア4世の治世の外交書簡と考えられています。

図13. タニス(サン・アル=ハガル)遺跡。ラメセス2世の彫像やオベリスクが見える。©︎ Nozomu Kawai
動画 新都ペルラメセスの調査とヴァーチャル復元(ドイツ、ヒルデスハイム博物館調査隊による)
参考資料:
K. A. Kitchen, Pharaoh Triumphant: The Life and Times of Ramesses Ii, King of Egypt (Aris and Phillips Classical Texts), 1983.
ベルデナット・ムニュー(吉村作治・監修)『ラメセス2世:神になった太陽王の物語』 (「知の再発見」双書)、創元社、1999年
カンティール・ペルラメセス・プロジェクト(ドイツ語のみ)
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