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ツタンカーメン王墓発見以降に発掘された未盗掘の王墓 ータニスの王墓群 第3中間期の秘宝ー

Updated: Feb 1, 2023

本文→221-223頁


△はじめに

 1939年、フランスのエジプト学者ピエール・モンテは、デルタ地方東部の都市タニス(サン・アル=ハガル)で住居址を発掘していたところ、偶然第3中間期第21王朝・第22王朝(前1069〜715年頃)の王墓群を発見しました。これは、ツタンカーメン王墓発見以降の世紀の発見でしたが、当時ヨーロッパは第二次世界大戦勃発寸前だったため、あまり報道されませんでした。20世紀の終わりになってようやく第3中間期への関心が高まり、各国で展覧会が行われるようになりました。これによって、モンテの発見の真価が認められるようになったのです。


 現在、ツタンカーメン王墓の副葬品が大エジプト博物館に移送されるのを受けて、カイロ・エジプト博物館の主要展示物として展示される準備が進みつつあります。本文でもタニスの王墓群についてはあまり触れていませんが、今回はカイロ・エジプト博物館の新たな目玉展示物となるタニス王墓群とその副葬品について解説します。


△タニス

 第19王朝のラメセス2世は、デルタ地帯東部にあったヒクソス王朝の首都アヴァリスの北数キロの地点に新都ペル・ラメセス(カンティール遺跡)を建設しました。その後、ペル・ラメセスは第20王朝末までエジプトの王都として機能しました。近年の探査や発掘調査によりペル・ラメセスの様相が明らかになりつつあります。ちなみに、旧約聖書の『出エジプト記』に記されたピラメスは、ペル・ラメセスのことだと考えられています。

 

 第20王朝の末にペル・ラメセスに接するナイル川の支流であるペルシウム支流が流路を変えたため、王都を維持することが不可能となり、さらに北に位置するタニスに移住することを余儀なくされたのです。この当時の王はラメセス11世でしたが、ラメセス11世の治世第19年にテーベのアメン大司祭ヘリホルが神権王朝を樹立し独自の新しい年号「新紀元」を唱え、ラメセス11世の王権は形骸化しました。時を同じくしてタニス出身のスメンデスが自らの出身地にペル・ラメセスの機能を移し、デルタ地帯を中心とする下エジプトを支配しました。これが第3中間期第21王朝の始まりです。ラメセス11世は死後テーベの王家の谷に埋葬され、その後彼の家族が王になることはありませんでした。


 タニスは古代エジプト語で「ジャネト」と呼ばれ、テーベのカルナクのようにアメン大神殿、ムウト(アナト)神殿などの神殿が造営され、それはまるでテーベの神殿群の複製のようでした(図2)。モンテが発見した王墓群はこれらの神殿群を囲む周壁の内部にあり、アメン大神殿の第1塔門の南側に位置していました。第3中間期は治安が悪化し、墓泥棒も横行したので、もはや王がテーベの王家の谷に埋葬されるということはなくなりました。代わって、この時代から王墓は神殿域の内部に造営されるようになります。これは安全性の理由もありますが、王が神の傍らに埋葬されることが第3中間期の王の埋葬の習慣となりました。以降、末期王朝時代の終わりまで歴代の王は基本的に大神殿の周壁の内部に墓を造営しました。ただし、南のクシュ(現在のスーダン)出身のファラオたちは自分たちの根拠地にピラミッドを建設し、そこに埋葬されました。


図1. プスセンネス1世の黄金のマスク、第3中間期、第21王朝、タニス出土(カイロ・エジプト博物館蔵)© Nozomu Kawai


図2. タニス遺跡地図(『古代エジプト全史』223頁、図113)


△タニスの発掘調査

 タニスはデルタ地帯東部で最大級のテル(遺丘)で、最初に本格的な発掘調査が開始されたのは、1860年でした。フランスのエジプト学者でエジプト考古局を設立し、初代カイロ・エジプト博物館の館長になったオーギュスト・マリエットが1880年までの20年間調査を行いました。その後、1883年から86年にかけて、エジプト考古学の父、フリンダース・ピートリーが発掘調査をおこない、モンテは1921年から51年にかけて調査を行いました。

 

 これらの発掘調査はいずれもタニスが旧約聖書の『出エジプト記』に記載されたペル・ラメセスと同一視されていたために、旧約聖書に関連する史料を獲得することが主眼でした。1970年代になってペル・ラメセスはカンティール遺跡であることが判明しましたが、遺跡の未発掘エリアは広大に存在することと、モンテの発掘エリアを再調査するために1990年代から今日にかけてフランス隊とエジプト隊による調査がけいぞくされています。


 2009年、エジプト考古省はムウト神殿で聖なる池が発見されたと発表しました。この池は石灰岩のブロックでできており、長さ15メートル、幅12メートルあります。地面から12メートル掘ったところで発見されました。


図3. タニス遺跡。オベリスクや彫像が横倒しになっている。© Nozomu Kawai


△モンテによるタニスの王墓群の発掘調査


「土を取り除けると、まぐさ石のような大きめな石板と、その後ろに小さな平たい石板2枚が現れた。ちょうど衣装箪笥の扉のようだ。ちょっと見てからイブラヒームの杖で叩いてみた。空洞らしい。あまりものを詰め込んでない地下室のような感じだ……。これを書いたら、また現場に戻る。重大なものが見つかりそうだ」ピエール・モンテ


 モンテは、1939年に初めてタニスで王墓群発見しました。上の文章はその時にモンテが書き残した日誌の一部です。発見した王墓群の上部構造は、その後のプトレマイオス朝時代による住居を建造するために取り除かれていたため、これらの王墓はほとんど隠されていたのでした。しかし、1939年2月27日、モンテたちはアメン大神殿の南西の隅にある最初の墓(現在のNRT−I号墓)(図2)を発見し、大きな驚きをもって受け止めたのでした。


図4. タニスの王墓群に埋葬された被葬者


 NRT-I号墓に埋葬されたオソルコン2世は、ラメセス朝(第19、20王朝)時代に製作された蓋付きの巨大な花崗岩の石棺に葬られていましたが、その中に納められた棺はハヤブサの頭を持っていました。彼の息子でタニスのアメン大司祭の称号を持ち、父より先に亡くなったホルナクトは、オソルコン2世の埋葬室を共有していました。もう一人の王タケロト1世は、中王国時代の石棺に埋葬されました。彼の墓室には、オソルコン1世と刻まれた副葬品の痕跡がわずかに残っていました。


 その他には、ショシェンク3世の再埋葬を含む墓室がありました。ショシェンク5世もその後NRTⅠ号墓に埋葬された可能性があり、そのことは彼のカノポス容器から証明されています。モンテにとってはこれは大発見でしたが、世界にとっては戦時下の大変な時代でした。モンテが墓から遺物を取り出している時、ヒトラーがチェコスロバキアを占領していました。


 モンテは、次に隣接する別のNRT-III号墓を発見しました。壁の碑文にはプスセンネス1世とあり、床にはハヤブサ頭の純銀製の棺(図5)が横たわっていました。発見の3日後の3月21日、エジプト王ファルークが開棺のためにやってきました。すると、棺の中には黄金のマスクと美しい金の宝飾品がありました。驚いたことに、これはプスセンネス1世のものではなく、それまで知られていなかったシェションク2世のものでした。


図5. シェションク2世のハヤブサ頭の銀の棺とカノポス棺、タニス出土(カイロ・エジプト博物館蔵)© Nozomu Kawai


 1940年2月15日、彼はついに、ラメセス2世のオベリスクの一部を再利用して作られた巨大な花崗岩の栓で封鎖された通路にたどり着きました。ハワード・カーターがツタンカーメン王墓を覗き込むように、モンテは部屋の中を覗き込むと、金銀の碗や杯、ウシャブティ、そして赤色花崗岩でできたプスセンネス1世の石棺が見えました。この石棺は王家の谷の第19王朝のメルエンプタハ王の王墓から略奪し、再利用したものでした。この石棺の中にはさらに新王国時代の貴族の石棺を再利用した内棺があり、その中には純銀の棺がありました(図6)。そしてその中に納められた王のミイラの顔は華麗な黄金のマスク(図1)で覆われ、体にはツタンカーメンに匹敵する装身具が飾られていました(図7・8)。


図6. プスセンネス1世の純銀の棺、タニス出土(カイロ・エジプト博物館蔵)© Nozomu Kawai


図7. プスセンネス1世の装身具、タニス出土(カイロ・エジプト博物館蔵)© Nozomu Kawai


図8. プスセンネス1世の腕輪、タニス出土(カイロ・エジプト博物館蔵)© Nozomu Kawai


△おわりに

 タニスの王墓群はツタンカーメン王墓発見以降のエジプト考古学の最大の発見でしたが、第二次世界大戦の最中であったこともあり、ほとんど知られていませんでした。ツタンカーメン王墓出土の副葬品と比べると技術的には劣る点もあり、新王国時代の副葬品も再利用されているということで、王権の衰退を示していますが、当時のファラオの埋葬がどのようなものであったかを知る大きな手がかりとなっています。ツタンカーメン王墓の副葬品が大エジプト博物館に移送された後は、カイロ・エジプト博物館の主要な展示品として人々を魅了することは間違いないでしょう。


主要参考資料

近藤二郎『エジプトの考古学』同成社、1997年

ジャン・ベルクテール(吉村作治監修)『古代エジプト探検史』創元社、1990年

ニコラス・リーヴス(岡村圭訳)『古代エジプト探検百科』原書房、2002年

イアン・ショー(近藤二郎・河合望訳)『古代エジプト』岩波書店、2007年

A. Dodson and S. Ikram, The Tombs in Ancient Egypt, Thames and Hudson: London, 2008.



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