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ブラック・ファラオの時代

本文→229〜236頁


△はじめに

エジプトは第3中間期になるとリビア系の王朝が各地に分立し、第22王朝から第23王朝にかけてエジプト国土は混乱状態に陥りました。新王国時代にエジプトの支配下にあったヌビアでは、第3中間期になると土着の勢力が力を伸ばしてきました。彼らは、エジプトの植民地支配が終わった後も、エジプト式の行政組織や宗教をある程度維持していたようです。当時は地域的な支配に限られていましたが、セムナの神殿に碑文を残したカリマラ女王は当時ヌビアを支配していた土着勢力の一人と考えられています。


△クシュ王国の台頭

 ヌビアの土着勢力の中でも特に台頭してきたのは、ナパタを根拠地とするクシュ王国でした。ナパタはヌビアにおけるアメン神の聖地で、当地にあるジェベル・バルカル(図1)という山の麓には新王国時代第18王朝以来アメン神に捧げた神殿が築かれており、クシュ王国の王はこの地のアメン神を篤く崇拝していました。そして、ジェベル・バルカルは聖山として位置づけられていました。前750年頃、クシュ王国のカシュタ王はアスワンまでのヌビア全土を支配し、自らを「上下エジプト王」と名乗り、エジプトのアメン信仰の総本山テーベを訪れました。アメン神を篤く崇拝したクシュ王国は、エジプト内部の政治的混乱を契機とし、おそらくエジプトへ支配を及ぼそうと考えていたのでしょう。


図1 アメン神の聖山ジェベル・バルカルとアメン神殿。岩山の崖の突端部(写真中央上部)は鎌首をもたげたコブラに見立てられた。 © UNESCO


△ピイ王のエジプト遠征

 カシュタ王の息子ピイ(ピアンキ)王は、当時テーベを支配していたいわゆるテーベの第23王朝と協定を結び、彼の妹アメンイルディス1世(図2)を「アメン神の妻」シェペンウェペト1世の後継者としました。「アメン神の妻」は、テーべの第23王朝において、王女が就任する職であり、アメン大司祭を凌駕するほどの権力を握っていました。こうして、クシュ王国は、テーベのアメン神官団と宗教的権威に多大な影響力を持つようになりました。

しかし、ピイ王はデルタ地帯の都市サイスのテフナクト王がデルタ地帯で勢力を伸ばし、さらに上エジプト北部に進撃してきたため、前730年頃にエジプト全土を掌握するための軍事遠征を開始しました。この軍事遠征の詳細は、ピイ王がジェベル・バルカルのアメン神殿に捧げた通称「ピイ王の戦勝碑」(現カイロ・エジプト博物館)(図3)に記されています。概要は以下のとおりです。


 治世第20年にヌビアで出陣したピイ王は、テーベで王権の更新と新年を祝うアメン神の大祭であるオペト祭を開催した後、中部エジプトのヘルモポリスを攻撃し、テフナクト王側についた同地のネマレト王を降伏させました。ピイ王はテフナクト王に攻撃されたヘラクレオポリスの支配者ペフチャウアウイバステト王から貢物を受け、さらに北に進みいくつかの都市を降伏させ、メンフィスに到着しました。


 メンフィスでは、テフナクト王の連合軍が大挙して抗戦をつづけましたが、ナイル川の増水季であったため、ピイ王の軍隊はメンフィスの港に停泊していた船を都市周壁の横に並べることができ、そこから都市内部を攻撃しました。メンフィスが陥落すると、ピイ王はメンフィスのプタハ神殿、ヘリオポリスのラー神殿を参詣してエジプト王としての戴冠式を行ないました。そして、サイスのテフナクト王以外の下エジプト各地の支配者が王に降伏をしました。この様子は、ピイ王の戦勝碑の上部にレリーフで表現されています(図3)。


 テフナクト王はメンフィスから都落ちをし、デルタ地帯の北部へ逃れましたが、最終的には使者を遣わし、降伏の意思を伝えました。こうして、ピイ王は上下エジプトを再統一することに成功し、ヌビアへ凱旋しました。かつてエジプトの植民地であったヌビアの王がエジプトを平定したわけです。その後、エジプト再統一に成功したピイ王は、エジプトに留まらず、本拠地のナパタに凱旋し、母国に戻ってしまいました。母国に戻ったピイ王は妹の「アメン神の妻」アメンイルディス1世によってテーベに影響力を維持しつつも、他の地域では各地方の自治を許していたようです。ピイ王は聖山ジャバル・バルカルのアメン神殿の改修、増築を行ない、テーベ、カルナクのアメン大神殿の複製のようにしました。


図2 ピイ王の妹、「アメン神の妻」アメンイルディス、カイロ・エジプト博物館蔵

© Nozomu Kawai


図3 ピイ王の「戦勝碑」、ジェベル・バルカル出土、カイロ・エジプト博物館蔵

© Nozomu Kawai


△テフナクト王の反乱とシャバカ王のエジプト支配

ピイ王がナパタに引き上げている間に、降伏したはずのテクナクト王はデルタ地帯で勢力を取り戻し、前720 年頃にサイスに第24王朝を樹立しました。そして、テフナクト王の息子バーケンレンエフ(ボッコリス)王は、メンフィスに都を置き、下エジプトを支配下に治めました。これに対して、ピイ王の弟で後継者のシャバカ王(図4)は、第24王朝を倒してエジプトの再征服に成功しました。シャバカ王は、首都を根拠地ヌビアのナパタからメンフィスに移し、本格的にエジプトを統治しました。シャバカ王はピイ王の政策を継承し、エジプトの伝統の復古を推進しました。


 彼の即位名「ネフェルカーラー」は、古王国時代第6王朝のペピ2世の即位名と同じです。神殿の碑文や装飾も古王国時代のものに回帰し、メンフィスの主神であるプタハ神を世界の創造者とするメンフィス神学の碑文(「シャバカ・ストーン」)も作られました。なお、彼以降の第25王朝のファラオの額には、従来のエジプトのファラオのように1匹のウラエウスコブラの姿や上下エジプトを象徴するウラエウスコブラとハゲワシの姿ではなく、2匹のウラエウスコブラが鎌首をもたげた姿で表されました(図4)。これは、エジプトとヌビアの2つの王国の王であることを示しています。


図4 シャバカ王像頭部、カイロ・エジプト博物館像 © Nozomu Kawai


△シャバタカ王

 シャバカ王の後はシャバタカ王が継承し、メンフィスやテーベで活発に建築活動を行ないました。また、シャバタカ王は、対外政策についても新王国時代のような覇権主義的な姿勢をとりました。西アジアでは、シリアを中心にアッシリア帝国が勢力を拡大し、パレスチナを侵略する機会をうかがっていました。南北に分裂していたイスラエル王国(南はユダ王国、北はイスラエル王国)は、北がアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国はアッシリアの属国となっていました。そして、前701年にユダ王国のヒゼキア王は、アッシリアに反乱を起こし、エジプトのシャバタカ王に援軍を求めました。そこで、シャバタカ王は息子のタハルカに援軍の派遣を命じました。この援軍はセンナケリブ王率いるアッシリア軍に破れてしまい、その後のエジプト征服への足懸かりとなってしまいました。


△タハルカ王の治世-クシュ王朝の最盛期-

 シャバタカ王の死後、息子のタハルカ(図5)が即位しました。タハルカ王の26年に及ぶ治世は、第25王朝の中で最も繁栄した時代でしたが、同時にアッシリアが征服のチャンスを窺っていた厳しい時代であした。

 タハルカ王の繁栄の時代は、彼の多くの記念建造物から窺うことができます。ヌビアでは、新王国時代第18王朝のアメンヘテプ3世の治世以来重要なアメン神の聖地の一つであるカワでアメン神殿を増築しました。この神殿の増築のために、タハルカ王は首都メンフィスから工人を遣わしたようです。タハルカ王がカワに造ったアメン神殿には、古王国時代のサフラー王、ニウセルラー王、ペピ2世のピラミッド葬祭殿のレリーフと同じものが刻まれていました。このカワのアメン神殿は、その後クシュの歴代の王の重要なアメン神の崇拝地となりました。その他には、ナパタのジャベル・バルカルのアメン神殿を増築し、サナム、メロエ、カスルイブリーム、ブーヘンなどにも同規模のアメン神殿を建設しました。


 タハルカ王は、エジプトではアメン神の聖地テーベに多くの記念建造物を残しています。カルナク、アメン大神殿では、第1中庭の中央に巨大な円柱からなるキオスクを建設し、聖なる池の南西角付近に神殿を造営しました。また、テーベの主要な諸神殿の第1塔門前にスクリーンウォールからなる正面玄関を追加しました。これらテーベの建築活動の総責任者は、アメン第4司祭メンチュウエムハトであり、彼と彼の兄弟が当時のテーベの最高権力者でした。


図5 タハルカ王像頭部、アスワン、ヌビア博物館蔵


△アッシリアの侵攻

 パレスチナで軍事遠征を繰り返していたアッシリアのエサルハドン王は、前676年にシドンを占領し、南下を進めました。そして、タハルカ王の治世17年(前674年頃)にアシュケロンでイスラエルのユダ王国と同盟を結んだエジプト軍と衝突し、その3年後の前671年には、エサルハドン王はメンフィスでタハルカ王を撃破し、エジプト王家の皇太子や家族を捕らえました。このことは『旧約聖書』にも記されており、タハルカ王はティルハカと呼ばれています(「列王記下」19章9節、「イザヤ書」317章9節)。さらに、エサルハドン王はナイル川を南下して、テーベまで進軍したが、タハルカは既にナパタへ逃れていて、捕らえることはできませんでした。


 タハルカ王は再びエジプトに帰還し、支配を取り戻しましたが、前667年にエサルハドン王の後継者アッシュール・バニパル王がエジプトに侵攻し、タハルカ王は再び南に追いやられました。タハルカ王の次の王タヌタマニ(タヌトアメン)は、アッシリア軍の撤退後にヌビアからエジプトに侵入し、アッシリアを支持する下エジプトの豪族を成敗しましたが、失地回復もわずかで終わり、前664年再びアッシュール・バニパル王が大軍を率いてエジプトに侵入し、ついに前663年にテーベは陥落しました。タヌタマニはナパタに逃れ、ヌビア人がエジプト全土を支配した時代は終わりを告げました。前664年にサイスで第26王朝が勃興しましたが、テーベでは前657年まではタヌタマニ王の治世年が日付に用いられており、タヌタマニ王が没した前656年が第25王朝の終焉と考えられています。この後、クシュの王国はナパタ、そして更に南のメロエで存続し、古代エジプト文化の影響を留めた文化を保っていました。


△ピラミッドの建設

 ピイ王は、アル=クッルの墓域(図6、図7)に自分と家族のためのピラミッドを建設しました。クシュの王は、ピイ王の後もピラミッドを建設しており、これはしばしばエジプト古王国時代の王権観への回帰を意味していると説明されていますが、ピラミッドの形はギザやサッカラのピラミッドよりも傾斜角が急で、むしろ新王国時代の貴族墓のピラミッドに似ているため、新王国時代にヌビアに作られた貴族の墓のピラミッドに似せてピラミッドを造営したと考えられます。


 タハルカ王は、アル=クッルから上流に数キロメートルの地点のヌーリにピラミッドを建設しました(図8)。クシュ王国で最大のピラミッドで、1辺の長さが52メートルです。ジョージ・ライズナー率いるハーバード大学とボストン美術館の合同調査隊により、発掘調査が進められました。副葬品は大量で、数千体のシャブティ像が出土しました。日本の美術館にも収蔵されています。

 これらのクシュ王国のピラミッドの伝統はメロエ王国にも継承され、紀元後4世紀までピラミッドの建設が続けられました。


図 6 アル=クッルのピラミッド群 © UNESCO


図7 アル=クッルのピラミッドの埋葬室から出土した副葬品、ハーバード大学・ボストン美術館合同調査隊の発掘による。ボストン美術館蔵 ©︎ Nozomu Kawai

図8 タハルカ王のピラミッド、ヌーリ




△クシュ王国と北米の黒人問題

 20世紀前半のエジプト学では、ヌビアやクシュを「ニグロ」と呼んで差別的に扱っていました。ハーバード大学のライズナー教授は、クシュの王によるエジプト支配を裏付ける考古学的証拠を発見しましたが、遺跡を建設したのが肌の黒いアフリカ人であるはずがないと主張したのです。しかし、20世紀末の研究からクシュ王国が古代エジプトを脅かすほどの初期文明であることが強調されました。そして、これは「アフリカ中心主義(アフロ・セントリズム)的」なエジプトは基本的に黒人文明であるという見方、つまりアフリカ人と黒人の両方が、初期文明の誕生においてはるかに重要な役割を果たしたという言説の根拠として扱われました。そして、マーティン・バナールの著した『黒いアテナ』に代表されるように西洋文明の起源はギリシアではなく、アフリカにあるとする考え方が広がりました。


参考資料

古代エジプトを支配したヌビア人の王たち、ナショナルジオグラフィック


実はエジプトより数が多かった! スーダンの知られざるピラミッドを巡る、ナショナルジオグラフィック


マーティン・バナール(金井和子訳)『黒いアテナ2』(上下)、藤原書店、2004年、2005年

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