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ツタンカーメン王墓発見100周年

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△はじめに

今から100年前の1922年11月4日に、ルクソール西岸の王家の谷で英国の考古学者ハワード・カーターの調査隊がツタンカーメン(トゥトアンクアメン)王墓を発見しました。今年はツタンカーメン王墓発見100周年を祝って、様々な催事が開催されています。私も10月末から11月頭にかけて、ルクソールで開催されたエジプト観光・考古省とアメリカン・リサーチセンターが主催するツタンカーメン王墓発見100周年のコンファレンスに招聘され研究発表を行いました。今回はツタンカーメン王墓発見100周年にあたってツタンカーメン王墓発見からそれ以降の100年の調査研究を振り返りつつ、王墓発見100周年の現地でのイベントやそのほかの動向についてご紹介いたします。


図1.ツタンカーメン王の黄金のマスク(カイロ・エジプト博物館蔵)© Nozomu Kawai


△ツタンカーメン王墓が発見されるまでのツタンカーメン王に関する証拠

今日黄金のマスク(図1)で知られるツタンカーメン王は最も有名なファラオですが、王墓が発見されるまではほとんど無名のファラオでした。ツタンカーメン王の属する第18王朝の次の第19王朝に編纂された王名表にも名前が記されていません。というのもツタンカーメン王は太陽神アテンを唯一神とする宗教革命を推進した父アクエンアテン王との関係から異端視され、歴史から抹殺されたのです。アビドスにある第19王朝のセティ1世やラメセス2世の神殿に残された王名表には彼らの名前は記されておらず、ツタンカーメン王の祖父アメンヘテプ3世の次の王はツタンカーメン王の時代の大将軍で後にファラオになったホルエムヘブになっており、歴史が書き換えられています(図2)。


 ツタンカーメン王の名前が記された資料でよく知られていたのは、アクエンアテン王が建設した新都アケトアテンの廃墟であるアマルナ遺跡から出土した多数の王の名前が刻された指輪(図3)でした。あるいは、ツタンカーメン王の名前がホルエムヘブ王の名前に書き換えられた通称「信仰復興碑」などのわずかの記念物が知られていただけでした。


図2.アビドス王名表の一部

左から「トトメス4世」、「アメンヘテプ3世」、「ホルエムヘブ」、「ラメセス1世」、「セティ1世」の即位名が記されている。ツタンカーメン王の即位名は記されていない。アビドス、セティ1世葬祭殿 © Nozomu Kawai


図3.ツタンカーメン王の即位名「ネブケペルウラー」が刻された指輪(カイロ・エジプト博物館蔵)© Nozomu Kawai


△ハワード・カーターとカーナヴォン卿

 ツタンカーメン王墓を発見したハワード・カーターは、元々絵描きとしてエジプトの調査で壁画やレリーフの模写をおこなっていましたが、次第に考古学に興味を持ち、エジプト考古学の父とよばれるイギリスの考古学者フリンダース・ピートリーのもとでアマルナ遺跡の発掘調査のアシスタントとして考古学の発掘調査の技術を学んだようです。もしかすると、カーターはこの時にツタンカーメン王の存在を初めて知ったのかもしれません。


 その後、カーターはエジプト考古局のルクソール遺跡(古代のテーベ)の査察官、サッカラ遺跡の査察官を歴任しましたが、サッカラ遺跡のセラペウムでフランス人観光客と殴り合いの喧嘩をしたため、考古局の仕事を解雇されました。失業の間は自ら絵を描いた絵葉書を売るなどして生計を立てていましたが、しばらく不遇の時代が続きました。そんな時に病気の療養でエジプトに滞在していたイギリスの貴族、カーナヴォン卿に出会ったのです。


 カーナヴォン卿はエジプト滞在中に考古学に興味を持ち自ら発掘調査を行う夢を抱きましたが、専門の考古学者を探す必要がありました。そこで、カーターと出会い、一緒に発掘調査を開始することになりました。彼らはルクソール西岸で発掘調査を行い、テーベの第17王朝の王によるヒクソス王朝の駆逐を記したいわゆる「カーナヴォン・タブレット」を発見するなどの重要な業績を残し、デルタ地帯の遺跡などの各地で精力的な発掘調査を展開しました。しかし、彼らは新王国時代の歴代のファラオが眠る王家の谷での調査を目指していました。当時王家の谷にはアメリカ人実業家セオドア・デイビスの調査隊が活発に調査を行っており、カーターとカーナヴォン卿が入る余地はありませんでした。


図4. ハワード・カーター(左)とカーナヴォン卿(右)(Wikipediaより)


△王家の谷での発掘調査

 ツタンカーメン王墓が発見された1922年の10年前の1912年に、デイビスは『ホルエムヘブ王墓とツタンカーメン王墓』という報告書を出版しました。デイビスは、ホルエムヘブ王墓を発見し、発掘調査を行った際に付近の岩陰から初めてツタンカーメン王の即位名を記したファイアンス製の容器を発見し、その付近にツタンカーメン王墓があると確信しました。そして、その付近で自らが発見した竪坑墓である王家の谷第58号墓(KV58)をツタンカーメン王の墓であると考えたのです。


 この墓は非常に規模の小さい墓でしたが、内部からはツタンカーメン王、アンケセナーメン王妃、そして後継者のアイ王の名前が記された複数の遺物が出土しており、デイビスはこの墓をツタンカーメン王墓と考え、その成果を報告書にまとめたのでした。ちょうどその頃第一次世界大戦へと向かっていく時代で、同年に「王家の谷はすべて掘り尽くされたのではないかと恐れている」との言葉を残し、大戦が始まった1914年の翌年1915年に王家の谷の発掘調査権を放棄したのです。建前は「王家の谷は掘り尽くされた」ということですが、本音は大戦で発掘どころではないということだったのでしょう。


 この頃カーターとカーナヴォン卿は王家の谷の西谷で調査を開始し、アメンヘテプ3世王墓の発掘調査を行いました。ちなみに私も学生時代から大学院生時代にかけて吉村作治先生を隊長、近藤二郎先生を現場主任とする早稲田大学によるアメンヘテプ3世王墓の調査に参加し、この時代の研究に興味を持ちました。


 さて、デイビスが王家の谷の発掘調査権を放棄し、カーターとカーナヴォン卿にチャンスが回ってきました。カーターはデイビスの調査隊が1907年に第54号墓という竪坑を発見し、その中から出土したツタンカーメン王の名前が書かれた遺物を含む大量の土器片、布片、生花の襟飾、ミイラ製作道具などの遺物から、この竪坑がツタンカーメン王のミイラ製作と葬儀に使用したあらゆる品々を埋納した場所であると考え、ツタンカーメン王の真の墓はまだ発見されていないと考えました。


 そこで、デイビスが発掘権放棄の直前まで調査をおこなっていた王家の谷の中心部で調査を開始しました。ここは王家の谷の中で最も堆積が厚い場所で、カーターはここに王墓が埋蔵されている可能性を信じていました。最近明らかになったことですが、後にカーターと共にツタンカーメン王墓の調査に参加することになるメトロポリタン美術館の写真家で考古学者のハリー・バートンは、デイビスに雇われて王家の谷の中心部で発掘調査を行っており、あと1.8メートル先まで掘っていたらツタンカーメン王墓がすでに発見されていたということです。定かではありませんが、バートンが後に発見されるツタンカーメン王墓の周辺の状況に詳しく、カーターに情報を提供したかもしれません。


 そして、カーターはラメセス6世王墓の入口付近で同王墓の造営に携わっていた労働者の休憩小屋を発見しました。当時の労働者はディール・アル=マディーナとよばれる労働者の村に住んでいましたが、王墓の造営時には石で小屋を作り休憩や寝泊まりをしていたことが知られています。カーターはこの小屋が岩盤の直上ではなく厚い石灰岩の瓦礫や破片の上に立っていたことから、その下にラメセス6世の時代である第20王朝よりも古い時代の遺構が存在する可能性を考え、地表面から約4m深く発掘したところ現地の発掘労働者であった水くみの少年が垂直の切り込みを発見したのです。


 これが1922年11月4日のツタンカーメン王墓の発見です。翌日には12段の階段が現れ、行く手に封印壁がありました。そこで、カーターは「ついに谷で見事な発見。無傷の封印を持つ素晴らしい墓。あなたの到着を待つため、元どおりに閉鎖。おめでとう」と書いてカーナヴォン卿に電報を送ったのです。


 2週間半後の11月23日、カーナヴォン卿とその娘イーヴリン・ハーバードがルクソールに到着しました。そして、翌日作業が再開し、その日の午後までに階段の全てが清掃され、16段の階段が現れました。これによって封鎖壁の下の部分が明らかとなり、ツタンカーメンの王名を記した封印を確認することができたのです。11月26日に彼らは前室前の封印の一部をこじ開け、カーナヴォン卿はカーターに「何か見えるかね」と訊いたところ、カーターは「はい、素晴らしいです」と応えました。そこには燦然と輝く無数の遺物がほぼ当時の姿のまま置かれていたのです。こうして、ツタンカーメン王墓の内部が確認されたのです。彼らは前室に入ると右側奥の壁の両端に黒く塗られた番人像の間にもう1つの封印壁があることを確認し、その奥にツタンカーメン王のミイラが眠っていると確信しました。


 しかし、翌年の1923年4月にカーナヴォン卿は帰らぬ人となり、いわゆる「ツタンカーメン王の呪い」が当時のメディアによって喧伝されました。途中カーターはエジプト政府によって調査を禁止されるような困難な事態もありましたが、王墓の発掘は1930年に完了し、1932年まで記録と修復作業が継続され、王のミイラと石棺、第1の人形棺を除く出土遺物のほとんどがカイロ・エジプト博物館に移送されました。カーターは、1939年に64歳の生涯を閉じました。カーターによるツタンカーメン王墓の関する出版物は、The Tomb of Tut.ankh.amenの3巻本(『ツタンカーメン発掘記』)のみで、当初計画されていた報告書は刊行されませんでしたが、彼の残した膨大な日誌などの記録には非常に詳細な記述が残されており、今日のエジプト学者の研究にとって極めて有益で重要な資料となっています。


△カーター以後のツタンカーメン王墓とその研究

 1926年に調査記録を終えたツタンカーメン王のミイラが再埋葬された後、何者かが石棺に侵入し、カーターが残していった品々を盗み出したと考えられています。これについては第二次世界大戦中、警備員の不足からエジプトの古美術品の略奪が横行した時期が考えられており、近年フランスのエジプト学者マルク・ガボルデがこの時に盗難にあったと考えられる遺物について調査研究をおこなっています。その後、遺体は再び包装されたことから、地元関係者が盗難を発見した後に、報告しなかった可能性が指摘されています。なお、盗難が発覚したのは、リヴァプール大学の解剖学者ロナルド・ハリソンがツタンカーメン王の遺体を再検査した後の1968年でした。


 王家の谷の墓はいずれも鉄砲水の被害をうけてきたことが報告されています。 1922年のツタンカーメン王墓発見後には定期的に入口から水が入り、1991年の元旦には暴雨で埋葬室の天井にある亀裂から墓に水が入り、被害を受けたことが報告されています。また、ツタンカーメン王墓を訪れる観光客が壁に手で触れたり、湿度を上昇させたりして壁の装飾を傷つける被害もみられました。 そして、ミイラもこのような被害を受けやすいため、2007年に前室に置かれた温度調節可能なガラス製展示ケースに移されて、湿気やカビから保護しつつ一般公開されるようになりました。


 以上のような状況から1988年には3Dスキャンによるツタンカーメンの墓のレプリカの製作が提案され、観光客が本物をこれ以上傷つけずに見ることができるようにしましたが、実際のところカーターハウス(カーターの調査隊宿舎)の傍に2014年に作られたレプリカには観光客はあまり訪れていません。2009年には、エジプト考古省と米国のゲティ保存研究所が墓の状態を調査し、保存修復プロジェクトを開始し、2019年にプロジェクトが完了しました。


 2015年、イギリスのエジプト学者、ニコラス・リーヴスは、ツタンカーメン王墓の3Dスキャンのデータに基づき、埋葬室の西壁と北壁に、これまで気づかれていなかった2つの別の部屋への入口があると主張しました。そして、リーヴスは、それがネフェルネフェルアテン女王としてファラオになったアクエンアテンの王妃ネフェルトイティ(ネフェルティティ)の埋葬場所であると示唆したのです。同年末に地中レーダーによる調査が実施され、その結果、部屋の壁の背後に空洞があると思われましたが、2016年と2018年の追跡レーダー調査により、そのような空洞はなく、したがって隠し部屋と考えられましたが、リーヴスは部屋の存在を確信しています。


△ツタンカーメン王墓発見100周年

 王墓発見から100年になる11月4日の早朝に私もツタンカーメン王墓に訪れました。コロナ禍で約3年間ルクソールに行くことができませんでしたので、感慨ひとしおでした。当日の王家の谷はコロナ禍以前のような賑わいで大勢の人々が訪れていましたが、日本人の姿はありませんでした。ツタンカーメン王墓の中も大勢の来訪者で賑わっていました(図5)。


 その後、王家の谷の涸れ谷の麓に位置するカーター・ハウスの修復事業の完了を祝う式典に参加し、修復され整えられたカーター・ハウスの内部を見学しました。当時の写真などの資料を元にできるだけカーター、カーナヴォン卿らの調査隊が生活していた時の状況が再現されていました。こちらは観光客に公開されていますので、ぜひ御覧ください。当時の発掘調査隊の暮らしぶりがわかる大変興味深い展示となっています。


図5.2022年11月4日のツタンカーメン王墓 © Nozomu Kawai


 夕方にはルクソール東岸のホテルの会議室でツタンカーメン王墓発見100周年記念のコンファレンスが開会され、元エジプト考古大臣のザヒ・ハワス博士の基調講演がありました。ザヒ・ハワス博士の基調講演は、これまで実施してきたツタンカーメン王のCTスキャンおよびDNA調査の成果と昨年ルクソール西岸で発見されたいわゆる「黄金の都市」の発掘成果についての大変興味深い内容でした。新しいツタンカーメン王のミイラの研究も行ったとのことで、近いうちにその成果について報告があるとのことでした。ザヒ・ハワス博士の基調講演の後にはルクソール神殿の第1塔門の前で記念式典が開催され、ツタンカーメン王墓発見100周年が盛大に祝われました。


図6. ツタンカーメン王墓発見100周年記念式典の様子、ルクソール神殿にて

© Nozomu Kawai


 コンファレンスは6日まで続き、ツタンカーメン王墓に関する記録の研究、ツタンカーメン王と王家のミイラの研究、ツタンカーメン王墓の出土遺物の研究、ツタンカーメン王とその時代に関する研究、ツタンカーメン王墓出土遺物の大エジプト博物館での展示などさまざまな内容の発表がありました。私も末席に加わらせていただき、ツタンカーメン王の治世の高官と政治状況について発表させていただきました。コンファレンスの内容については来年に報告集が出版される予定ですので、ご期待ください。


図7.ツタンカーメン王墓発見100周年記念コンファレンスの様子 © Nozomu Kawai


 このような現地での催事の他に今年から来年にかけてツタンカーメン王や王墓に関する新しい著書などの出版も相次いでいます。先日もニコラス・リーヴスのThe Complete Tutankhamunの最新全面改訂版が出版されました。その他にもエイダン・ドドソンやガリー・ショーなどがツタンカーメン王についての著書を出版する予定です。


 一人の無名のファラオの墓が100年前にほぼ未盗掘の状態で発見され、世界が熱狂しました。その熱狂は100年後まで連綿と続き、多くの人々を魅了しています。私自身も小学生の時にツタンカーメン王の黄金のマスクをテレビで見て、発掘記を読み、エジプト学の世界に引き込まれてしまいました。ツタンカーメン王墓の出土遺物はまだ3割しか十分に研究されておらず、今後も新たな研究と発見が続くことでしょう。近いうちに6000点以上の財宝が大エジプト博物館で間近に見られるのが待ち遠しいですね。これからもツタンカーメン王とその財宝は世界から注目され続けるでしょう。


図8. カイロ・エジプト博物館、ツタンカーメン・ギャラリーで長蛇の列


参考資料


ツタンカーメン王墓発見100周年コンファレンス(The Centennial Tutankhamun Conference)

N. Reeves, The Complete Tutankhamun, Revised Edition, Thames & Hudson, 2022.

河合望『ツタンカーメン 少年王の謎』集英社新書、2012年









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