「ヒクソス」とは
- nozomukawai
- Mar 25, 2022
- 10 min read
Updated: Jun 25, 2022
本文135〜145頁
△高校世界史の教科書に書かれた「ヒクソス」と「ヒクソス」のイメージ
かつて日本の高校の世界史の教科書には、「中王国時代には、中心は上エジプトのテーベに移ったが、その末期に、シリア方面から遊牧民ヒクソスが侵入して、一時混乱が生じた。しかし前16世紀に新王国がおこってヒクソスを追いだし、さらにシリア方面にまで進出した」という記述がありました。侵入は流入という表現に代わったものの、「ヒクソス」は未だに特定の異民族を指す用語として使われています。
本書にも記したように、「ヒクソス」とは古代エジプト語の「ヘカウ・カスウト」のギリシャ語訛りであり、「ヘカウ・カスウト」とは「異国の支配者」を意味します。そして、第2中間期に下エジプトを中心に支配していた第15王朝の異国出身の王たちのことを指していました。つまり、本来は特定の異民族を指す用語ではありません。
「ヒクソス」という用語を特定の異民族という意味で使ったのはエジプトの歴史を著したギリシャの歴史家たちであり、それがそのままエジプトに侵入した西アジアからの遊牧民という意味になってしまったのです。ちなみに、古代エジプト語の同時代資料では、西アジア人を「アアムウ」と呼んでいました。「ヒクソス(ヘカウ・カスウト)」の初出は、中エジプトの遺跡ベニ・ハッサンのクヌムへテプ2世の岩窟墓に描かれた西アジア人の図像にともなって記されています(図1)。

図1 ベニ・ハッサンのクヌムへテプ2世墓に描かれた西アジア人の図像。上段中央で赤茶色のガゼルを掴んでいる男性の前に「ヘカ・カスウト(「異国の支配者」)」アビシャ(人名)と書かれている。(Karl Richard Lepsius, Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien, Leipzig, 1913より)
中王国時代に「ヒクソス」の王たちの先祖に当たる人々がエジプトに徐々に移住し、第12王朝末までには、軍事、商業、工芸などの分野で労働力として大量に雇われていました。西アジア方面からエジプトに多くの人々が流入したことは、独特の埋葬習慣(ロバの埋葬を伴う墓)とこの時代の遺物、とりわけキプロス産の輸入土器が出土したことなどから確認されています。しかしながら、以前の日本の世界史の教科書は西洋から輸入された歴史を無批判に引用する傾向が強かったので、かつての西洋の世界史の教科書に記されていた「ヒクソスの侵入」というあたかも異民族が武力で征服したような記述が、日本の世界史の教科書でも使われていました。これは、エジプト最初の歴史家マネトの『エジプト史』の以下の記述が元になっています。
「テュティマイオス王の御代のこと。私にはその理由がわからないが、神は怒りの息吹を私たちに吹き込まれた。すると、突如として、東のほうから素性のつまびらかでない者たちがあらわれ、不敵にもわたしたちの国に侵入し、その主力は、やすやすと、戦闘をすら交えずに国内を占領してしまった。・・・中略・・・さて、この民族は、「王の羊飼いたち」という意味のヒクソスという名で総称された。・・・・」
(紀元1世紀、ヨセフス、アピオンの反ユダヤの著作の反駁書の一節)
この「ヒクソス」の「野蛮な侵略者」のイメージは、おそらく「ヒクソス」を打倒して成立した第18王朝に作られたと考えられます。たとえば、第18王朝のハトシェプスト女王のスペオス・アルテミドスの岩窟神殿の銘文(写真1)では「アジア人がかつてエジプト作られていたものを破壊し、太陽神ラーを崇めることなく支配したとされ、彼らが荒廃させた各地の神殿をハトシェプスト女王が復興させた」とあります。つまり、「ヒクソス」がが野蛮人であるというレッテルは、第18王朝の王家にとっては自明であったと考えられます。おそらくこのような考え方が、歴史家マネトの生きていたプトレマイオス朝時代まで伝わっていたのでしょう。

写真1 スペオス・アルテミドスの岩窟神殿のハトシェプスト女王の碑文
©︎ Nozomu Kawai
そして、これが後に前2千年期にあったとされるインド・ヨーロッパ語族の移動と関連づけられました。19世紀後半には「ヒクソス」は、カナン人あるいはフリ・アーリア人であるとする2つの説がありました。また20世紀の終わりでも、ある研究者は「ヒクソス」がアナトリアから海路で移動してきたインド・ヨーロッパ語族であると主張していました。近年では、中王国時代にレヴァント(東地中海地域)から徐々にエジプトに移住し、自らのコミュニティを形成して、前1650年頃に東デルタに王朝を樹立したと考えられています。ただし、これらの人々は自ら流入しただけでなく、たとえば第12王朝のアメンエムハト2世のレヴァント遠征などによって戦争捕虜として連れて来られた人々も含まれます。
△ヒクソスの王たち
第19王朝のラメセス2世の治世に編纂された「トリノ王名表」には、「ヒクソス」王朝の第15王朝に当たる時代は6人の王が108年統治したと記されています。文献史料や考古学的証拠から、1.セケルヘル(サリティス)、2.キヤン、3.アペピ、4.カムディの4人の王が確認されています。その他にスカラベなどで王名が確認されていますが、ヒクソス王朝の王かどうかは不明です。彼らは、ヒクソスの支配下にある南パレスティナの諸侯ではなかったかと推測されています。
「ヒクソス」王朝の第15王朝と同時期に存在したテーべの第17王朝の王カーメスは、カーメス・ステラにおいてヒクソスのアペピ王を「レテヌウ(古代エジプト語でシリア・パレスチナ地域を指す)の族長」と呼んでいます。このことは、アペピ王がシリア・パレスティナ出身であることを示唆しているのかもしれません。また、キヤンの名はアモリ語のハヤヌ"Hayanu" (h-ya-a-n)を表すとされており、この名前は紀元前1800年頃のアッシリア王、シャムシ・アダトの遠い先祖として記されています。また、初代と見られるセケルヘルのヘルはカナン語の「山」を意味し、セケルはアモリ語で「報い」という意味であるのでセケルヘルは「山の報い」という意味になります。このことからカナン、西セム語族が起源であると推定され、ヤコブヘル王、アナトヘル王の名前も西セム語であると考えられています。
△ヒクソスの都、アヴァリス(テル・アル=ダブア遺跡)
「ヒクソス」王朝が首都としたアヴァリスは、東デルタのペルシウム支流の側に位置していました(図2)。現在はテル・アル=ダブア遺跡として知られており、1970年代よりオーストリア考古学研究所のマンフレッド・ビータク隊長のもと、長期間にわたって発掘調査が継続され、「ヒクソス」の実態が考古学的に明らかになってきました。
彼らの調査の成果によると、第1中間期に要塞として最古の集落が形成され、中王国時代第12王朝末から第13王朝にかけて人口が増加し、西アジア人の集落が出現しました。そこでは、エジプト化したシリア・パレスチナの中期青銅器時代の物質文化を示しています。
具体的には、シリア様式の住居、居住区内の墓地、シリア・パレスティナ系の土器、武器の埋葬、ロバの埋葬、マッシュルーム形の髪型の高官の彫像(写真2)が出土しており、西アジア系の文化を示します。また、「レテヌウの支配者」の銘のあるスカラベが出土していることから、レヴァントとの交易に携わったエジプトの王宮におけるアジア系の高官の存在が推定されています。
宗教に関する証拠としては、北シリアの天候神ハダド/バアル・ゼフォンを表した円筒印章が出土しており、これはカナンの神々が信仰されていたことを示すものとみられています。第14王朝になると、在地王国の首都になったと考えられています。ネヘシ王のもとでアヴァリス(エジプト名「フウト・ワレト」)が建設され、王朝の神としてセト/バアル神が信仰されたと考えられています。西アジア人高官の墓が検出されており、埋葬形式は屈葬で、シリア・パレスティナ系土器の副葬、6頭のロバの埋葬を伴っていました。
第15王朝になると「ヒクソス」王朝の首都となり、面積は4平方キロメートルに拡大しました。エジプト文化と西アジア文化の融合が発展し、シリア・パレスティナ系の神殿とエジプト風の葬祭殿が共存していました。また、ヴォールト天井を持つ墓、レヴァント系のアンフォーラに子供の埋葬が確認されています。西アジア系の武器が副葬された墓もあり、これらは戦士階級の墓と考えられています。エスベト・ヘルミ地区では、軍事要塞施設および王宮施設が建設されたと考えられています。

写真2 西アジア系の高官の彫像頭部。マッシュルーム形の髪型が特徴的である。クヌムへテプ2世墓に描かれた西アジア人(図1)と共通する特徴である。(ミュンヘン・エジプト博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai

図2 テル・アル=ダブア遺跡地図(『古代エジプト全史』138頁、図66)
△「ヒクソス」のエジプト支配と国土解放戦争
第15王朝(ヒクソス王朝)の直轄領は、デルタ東部からシナイ半島北部を経てパレスティナ南部までにすぎず、それ以外のエジプト各地には諸侯を封じる一種の「封建体制」をしき、貢納の義務を負わせ、宗主権を行使していたと考えられています。中部エジプトには第15王朝支配下のエジプト人諸侯が割拠し、上エジプト南部はテーベを本拠地とする第17王朝の勢力圏となっていました。ヌビアは第15王朝と交易・友好関係を結んだケルマを都とするクシュ王国の支配下に入っていました。
そして、 テーベを根拠地とする第17王朝のセケンエンラー・タア2世が対ヒクソスの独立戦争を開始とされています。これは、第19王朝に書かれた文学作品『セケンエンラー王とアペピ王の争い』の記述を元にしています。考古学的証拠としては、セケンエンラー王がディール・アル=バラスに対ヒクソス戦争の要塞を建設しており、彼のミイラには「ヒクソス」に特徴的な戦斧による損傷があります。このことから、セケンエンラー・タア王は明らかに戦闘を交えたと考えられます。
しかし、最近の研究でこの損傷は戦闘中ではなく最後のとどめの儀式で受けた傷であることが明らかになりました。そして、彼の後継者カーメス王が戦闘を継続しました。カーメス王のステラ(写真3)の記述によると、カーメスは現状に満足してヒクソスとの共存を望む廷臣の反対を押し切り、戦端を開いた。アヴァリスの郊外まで軍をすすめ、西アジアの産物を積んだ船団を捕獲、戦車などの戦利品を獲得し、テーベに凱旋しました。カーメス王の後継者イアフメス王も「ヒクソス」との戦いを継続し、アヴァリス(テル・アル=ダブア)を攻撃しました。攻防は幾度となく繰り返され、ようやく治世第10年にアヴァリスが陥落、エジプト国土の再統一が達成されました。これが新王国時代第18王朝の開始となります。しかし、「ヒクソス」の残存勢力がパレスティナ南部に残っており、3年間の包囲の末、「ヒクソス」最後の拠点シャルーヘンを占領し、「ヒクソス」の抹殺に成功しました。

写真3.カーメス王のステラ(ルクソール博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai
△ヒクソスがエジプトにもたらしたもの
ヒクソスのエジプト支配によって、エジプトは、これまでのナイル下流域の中だけの相対的孤立をやめ、西アジアを含むより広いオリエント世界の舞台の上にひきずりだされました。西アジア系の異民族出身者に国土を支配されることにより、エジプト人の民族意識をかきたてられ、目標実現のための国家体制の整備にのりだしたと言えます。そして、第18王朝になるとチャリオット(二輪馬車)(写真4)や複合弓(写真5)などの「ヒクソス」がエジプトにもたらした武器、軍事技術が採用され、それらを駆使できる職業軍人が要請され、軍人層が形成されました。これにより、軍事国家体制への道が築かれ、エジプトは新王国時代第18王朝にオリエント世界最大の帝国になったのです。

写真4 チャリオット(二輪馬車)、新王国時代第18王朝、ルクソール西岸、ケンアメン墓出土(フィレンツェ考古学博物館蔵)©︎ Nozomu kawai

写真5 複合弓と矢(ルクソール博物館蔵)©︎ Nozomu kawai
参考資料:
M. バナール(金井和子)『黒いアテナー古典文明のアフロ・アジア的ルーツ』上巻、下巻、藤原書店、2004年、2005年.
エリック・H・クライン(安原和見訳)『B.C. 1177 古代グローバル文明の崩壊』筑摩書房、2018年.
Manfred Bietak, Avaris: The Capital of the Hyksos Recent Excavations at Tell el-Daba. London: British Museum Press, 1996.
テル・アル=ダブア遺跡のウェブサイト
Comments