エジプトにおける文字のはじまり

　本書→58-59頁

△エジプトのヒエログリフと楔形文字

　かつて人類最古の文字はメソポタミア文明のシュメールの楔形文字とされ、エジプトのヒエログリフよりもかなり遡ると考えられていました。そのために、紀元前3000年頃に突如として現れたかに見えるエジプトの文字は、先王朝時代の終わりに西アジアとの交流が増えたことによって影響を受けたものだと考えられていました。しかし、実際にはシュメールの楔形文字とエジプトのヒエログリフの文字システムはあまりにも異なるため、ヒエログリフは楔形文字から直接発展したのではないとされました。そして、表意文字の概念だけがメソポタミアから伝来したと考える研究者もいました。

△U-j墓のラベルの発見

　このような疑問にたいし、1990年代にカイロのドイツ考古学研究所によるアビドスの原王朝時代（ナカダIII期・第０王朝）の王墓U-jの発掘調査によって、エジプト最古の文字を記した遺物が発見され、ヒエログリフは先王朝時代の後半の前3200年頃までにはすでに使用されていただけでなく、表音文字の使用も始まっていたことがわかってきました。本書にあるように、U-j墓の所有者は、出土した土器に書かれた王名にサソリのサインが含まれ、サソリの発音がわからないことから、便宜的にScorpion I「サソリ１世」と呼ばれています。そして、この墓はアビドスのU墓地（67頁、図29）に存在する墓であるため、U-j墓と名付けられました。このU-j墓からは、象牙や木材を削って作られた多数の小型のラベル（札）が出土しており、このラベルの表面に50種類あまりに及ぶ文字が彫られていました。ラベルの角には穴が空いており、土器やその他の物品と紐で結ばれていたと考えられています。

△ラベルに記された文字とは？

　これらのラベルには、数字、副葬品の内容、地名、王家の領地を示すヒエログリフが刻されていました。このヒエログリフは、単に絵文字（表意文字）を表したものではないということが極めて重要で、その多くは音価を持つ表音文字でした。以前は第１王朝までこのような表意文字と表音文字が組み合わさった段階は存在しないと考えられていましたが、これらのラベルを調査したドイツ隊の隊長ギュンター・ドライヤーによれば、そこにはブトやブバスティスなど、後世の王朝時代の碑文に登場する重要な都市の名前が出てくることから、これらが表音文字であると主張し、この考えは通説となっています。例えば、下の図１右下のラベルの線画の右側の鳥のサインはスグロハゲコウと呼ばれるコウノトリの１種で「バア」と読め、左側のサインは玉座で「セト」と読めます。合わせて「バアセト」と読むことができ、デルタ地帯の重要な都市、ブバスティスであることがわかります。

△前3200年頃の高度な文字システム

　このように、前3200年頃の原王朝時代（ナカダIII期・第０王朝）にアビドスに埋葬された支配者に雇われていた高官たちは、表意文字と表音文字を組み合わせた高度な文字を使用していたということになります。また、ラベルにデルタ地帯の重要な都市の地名が記されているということは、エジプトの北と南の間にはすでに経済的、政治的な強い結びつきがあったと考えられます。つまり、文字システム、官僚制度、記念建造物の造営、交易や経済管理のシステムなど国家が持つとされる多くの要素がすでに存在していたことを意味すると考えられています。しかし、U-j墓での文字ラベルの発見以降同じような文字ラベルは発見されておらず、具体的な機能についてはまだ明らかになっていません。第１王朝のアビドスの王墓からは王の軍事遠征や王位更新祭などの治績を記したラベルが多く出土するようになりますが、U-j墓から出土した文字ラベルも被葬者の威信を示すか、あるいは来世で必要な副葬品として遠方からの奢侈品を入れたため、そのようなラベルを付けた可能性も考えられます。ラベルの機能はまだ検討する余地がありますが、いずれにしても前3200年頃までにエジプトで表意文字と表音文字を組み合わせた文字システムが発達したことは驚くべきことです。