ツタンカーメン王の時代
- nozomukawai
- May 2, 2022
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Updated: Jun 25, 2022
本文→189〜194頁
△はじめに
今から100年前の1922年に、ツタンカーメン王墓が発見されました。王墓はほぼ未盗掘の状態で発見され、今やツタンカーメン王はエジプトで最も有名なファラオとなりましたが、彼の記憶は後世のファラオたちによって消されてしまったため、その時代は不明瞭なままでした。ツタンカーメン王は長い間あまり重要ではないファラオとみなされましたが、近年の考古学的発掘調査、神殿や墓などに刻まれた碑文の研究、世界中の博物館での詳細な研究により、その時代状況が明らかとなってきました。
本稿では、4月に出版された米国の学会American Research Center in Egyptの雑誌Scribeに寄稿した、拙稿"The Time of Tutankhamun. What New Evidence Reveals"を和訳して加筆修正した内容を紹介します。

図1. アメン神に守護されるツタンカーメン王像頭部。テーベ、カルナク神殿出土(メトロポリタン美術館蔵)©︎ Nozomu Kawai
△アマルナ時代末期とツタンカーテン王
ツタンカーメンの正式な名前はトゥトアンクアメンで、その意味は「アメン神の生きる似姿」です。アメン神とは、テーベのカルナク神殿を聖地とする当時の国家神です。
しかし、彼が生まれた時に付けられた名前は、ツタンカーテン、すなわちトゥトアンクアテンで「アテン神の生きる似姿」でした。アテン神は、ツタンカーメン王の父とされるアクエンアテン王(元の名はアメンへテプ4世)が導入した、太陽とその光を意味する新たな国家神です。アクエンアテン王は、このアテン神を唯一神として崇拝しました。この「アテン神の生きる似姿」を意味するツタンカーテンという名前から、彼はアクエンアテンの治世には皇太子として公式に認められていたと考えられます。
アクエンアテン王が新都として建設したアケトアテン(アマルナ遺跡)から出土したいくつかのレリーフには、彼の名前や図像が表されていました。このことからも、ツタンカーテンはアクエンアテン王の「皇太子」であり、アクエンアテンは彼を自分の正当な後継者と見なしていたと考えられます。
しかし、もう一人、アクエンアテンの後継者と目されていたと思われる男性がいました。それはスメンクカラーです。スメンクカラーは、アクエンアテン王の治世の後半に共同統治者として王位を共有したと考えられています。アクエンアテン王の長女メリトアテンは、スメンクカラーの王妃として「偉大なる王妃」の称号を得ました。スメンクカラーの治世は非常に短く、おそらく1年未満であったと考えられます。これは、アマルナ出土のワイン壺に書かれたスメンクカラー王の名前に伴う年号が示唆するところです。
スメンクカラーの死後、アクエンアテン王の正妃ネフェルトイティ(ネフェルティティ)は、「夫に有益なる者」という形容辞を持つネフェルネフェルウアテン女王として、アクエンアテン王の共同統治者となったと考えられます(図2)。
しかし、ネフェルネフェルウアテンの比定については長年議論が続いており、フランスのエジプト学者マルク・ガボルデらは、ネフェルネフェルアテンがメリトアテンであると考えています。
ネフェルフェルウアテンとアクエンアテンの共同統治が終わると、アマルナの宮廷では政治状況が混乱に陥った可能性が高いと考えられます。エジプト学者やヒッタイト学者の中には、ツタンカーメン即位前に統治していた女王は、ヒッタイト王シュピルリウマ王に手紙を送り、王位を共にする王子をエジプトに送るよう依頼したことが知られている未亡人の女王であると確信する者もいます。もしこの事件がアクエンアテン王の死後に起こったのであれば、未亡人となった女王はネフェルトイティかメリトアテンのどちらかと比定されます。他の学者は、この事件をツタンカーメンの死後に起こったことと推定しています。これについては、この本稿の終わりで取り上げます。

図2. 2人のファラオの姿で表されたアクエンアテン王とネフェルトイティ王妃(ネフェルネフェルウアテン女王)。アマルナ出土(ベルリン・エジプト博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai

図3. ツタンカーメン王墓出土のヌウト女神の胸飾。本来はネフェルネフェルウアテン女王のものであったが、名前を改竄されている。カルトーシュの中の文字が書き換えられているのがわかる。ツタンカーメン王墓出土(カイロ・エジプト博物館蔵)©︎Nozomu Kawai

図4. 本来はネフェルネフェルウアテン女王の像と見られるツタンカーメン王墓出土の王像。女性の肉体表現から、明らかに本来は女王のものであったことがわかる。ツタンカーメン王墓出土(カイロ・エジプト博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai
アクエンアテン王の死後、ネフェルネフェルウアテン女王が単独で君臨し、その期間はおそらく2、3年程度でした。テーベ西岸のパイリの墓(第139号墓)にあるパウアフという人物が書いたグラフィティ(落書き)によると、ネフェルネフェルウアテン女王の治世第3年には、アテン信仰と首都アマルナを維持しながらも、伝統的な宗教への復興が始まったことが窺われます。
おそらく、伝統的な宗教を復活させる動きは、アテン信仰を推進したアクエンアテン王の死後に始まったのでしょう。ツタンカーメン王墓から発見された多くの遺物がネフェルネフェルアテン女王の埋葬のために作られ、最終的にはツタンカーメン王が使用するために改竄されたことは、ツタンカーメン王とその側近が彼女の治世を認めようとしなかったことを示唆しています(図3、図4)。
ネフェルネフェルウアテン女王は、皇太子であったツタンカーテン王子が正統な後継者であったにもかかわらず、アクエンアテン王の死後も単独で王位に就いていました。ネフェルネフェルウアテン女王は幼い少年ツタンカーテン王子に王位を譲るのではなく、自分がすでに共同統治者として君臨していたため、またツタンカーテンはまだ5歳から10歳間の幼児であったことから、単独統治を続けたのでしょう。
前述の通りネフェルネフェルウアテン女王はアメン神などの伝統的な神々の信仰の復興を始めましたが、同時にアマルナのアテン信仰も維持したため、役人や神官たちの中には早く正統派に戻そうとする不満の声があったとみられます。ネフェルネフェルウアテン女王の治世が3年程度で終わると、アマルナ王家の生き残りはツタンカーテンとアケナテンの3女アンクエスエンパアテンだけとなりました。
△信仰の復興
ツタンカーテンは、8歳頃にメンフィスで即位したようです。アケトアテン(アマルナ)には、神殿や王宮などの公共建造物を残していないことから、この都をすぐに放棄したと考えられます。ツタンカーテン王は、 ネフェルネフェルウアテン女王のもとですでに伝統への復興の動きが始まっていたため、アメン神などの伝統的な神々を崇拝しました。
一方、ツタンカーメンの黄金の玉座にはアテン神の姿が描かれており、統治開始当初もアテン神への崇拝を続けていたとみられます(図5)。ツタンカーテンとアンクエスエンパアテンは、メンフィスへの遷都の際に、それぞれツタンカーメンとアンケセナーメンに改名したとされています。
しかし、治世の初期には王はツタンカーテンとツタンカーメンという二つの名前を同時に持ち、ごく短期間にアメン神とアテン神という二つの国家神を同時に崇拝していたと私は考えます(図6)。名前の変更はそれほど急激なものではなく、アテン教とアメン教の折衷を意味する二つの名前の共存であったとみられます。ツタンカーメンは、テーベを再び国家宗教の中心に据えると同時に、国土の復興を精力的に進めました。そして最終的に王は、名前をツタンカーメンに変えたと思われます。

図5. ツタンカーメン王の玉座の背板。王と王妃の頭上にはアテン神が表されている。ツタンカーメン王墓出土(カイロ・エジプト博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai

図6. ツタンカーメンとツタンカーテンと両方の名前が記されたチャリオット(二輪馬車)の金張りの装飾。ツタンカーメン王墓出土(カイロ・エジプト博物館)©︎ Nozomu Kawai
ツタンカーメンの「信仰復興碑」(図7)は、ツタンカーメン王の治世の初期の政策について情報を提供しています。この勅令はツタンカーメン王の治世第1年に出されたとする研究者もいますが、「信仰復興碑」は、ツタンカーメン王の即位から成し遂げられてきた伝統的な信仰の復興事業を記したものと考えられます。
ツタンカーメンはこのステラで、自らの即位前の時代を、神々が不在であった時代で、その結果エジプトに災禍がもたらされたと述べていますが、その災禍に導いたとされる具体的な理由については述べられていません。
「信仰復興碑」によれば、ツタンカーメン王は、アマルナ時代に閉鎖していた各地の神殿を再開させるだけでなく、各神殿でアクエンアテン王の治世に破壊された神殿や神像を修復し、新たに神像などを製作させたということです。また、アマルナ時代に王権に集中していた富をエジプト全土の神々の諸神殿に分配し、地方豪族の子弟から神官を任命したと記されています。また、私有財産を含む神殿や都市の収入を増加させました。つまり、アマルナ時代に王やアテン神殿が所有していた財産を、伝統的な神々の神殿や地方都市に分配したのです。第4に、神殿の男女の使用人や歌い手を国家による徴税から保護しました。

図7. ツタンカーメン王の「信仰復興碑」。カルナク神殿出土(カイロ・エジプト博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai
ネフェルネフェルウアテン女王はテーベでアメン神の信仰復興を始めましたが、実質的な復興事業はツタンカーメン王の治世に開始されたようです。ツタンカーメン王の治世は、その短さにもかかわらず、エジプト全土での美術や建築の活動が著しく増加したことが最近の研究で明らかになってきました。
ツタンカーメンの修復活動と建築活動の全容を知ることは不可能ですが、ツタンカーメン王による各地の神殿の復興とは、デルタから上部ヌビアにまたがる大規模なものであったことがいくつかの証拠によって示唆されています。ツタンカーメン王自身は、しばしば神殿のレリーフや石碑で、アメン神や他の伝統的な神々にロータスの花の束を差し出す姿で描かれており、これはツタンカーメン王の復興事業の象徴的なモチーフであったと考えられます(図7)。
デルタ地帯ではチャアルウ(ペルシウム)、アヴァリス、ブバスティス、レトポリスなどの神殿でツタンカーメン王の活動が考古学的に確認されており、これらの地域で在地の神々の神殿を再開させたことが看取されます。ツタンカーメン王はアマルナ(アケトアテン)からメンフィスに遷都したため、特にメンフィス地域には重要な建築活動が見られます。
ヘリオポリスでは、アクエンアテン王の時代にアテン信仰の中心地であったことから、アメン神との結びつきを再確認するために、テーベの神々であるアメンやコンスの礼拝堂を造営しました。王はギザの大スフィンクスの前に離宮を造営し、門のまぐさには自らを 「フウロン(スフィンクスの別名)に愛されし者」と刻ませ、スフィンクスとの密接な関係を示しました。
このようにツタンカーメン王は、スフィンクスが化身と考えられているヘリオポリスの神ラー・ホルアクティ神とホルエムアケト神への崇拝に傾注しました。彼は、 神々の信仰を復興するためだけでなく、 これらの神々はアメンヘテプ2世とトトメス4世が篤く崇拝していたことから、祖先のファラオと自分を結びつける意図もあったのでしょう。メンフィスとサッカラでは、ツタンカーメンはプタハ神殿を装飾し、アメンへテプ3世の時代に始められ、アクエンアテンの時代に放棄された聖牛アピスの埋葬を再開させました。
ツタンカーメン王の最も大規模な復興事業の痕跡は、テーベで窺われます。アメンヘテプ3世の建築事業を引き継ぎ、アクエンアテン王が放置していた未完成の建築活動を実施しました。ツタンカーメン王は、アメンヘテプ3世の建築事業を再開することで、アクエンアテン王以前の王の後継者としての正統性を高めることを目指したのです。
例えば、ツタンカーメン王は、アクエンアテン王が未完成で放置していたルクソール神殿の大列柱廊の装飾を行いました(図8)。大列柱廊の壁面に施されたオペト祭の場面では、ツタンカーメン王はテーベの三柱神(アメン、ムウト、コンス)の聖船の神輿に、神格化された故王としてアメンヘテプ3世を描かせました。このことは、ツタンカーメンとアメンヘテプ3世との関連が、政治的プロパガンダとしてオペト祭の際に公に示され、 後継者としての正統性を強化した可能性を示唆しています。
カルナク神殿では、ツタンカーメンは第3塔門の北にあるアメンヘテプ3世のレリーフの後ろに、自分の小さな姿を描いたようです。また、ツタンカーメン王はアメンヘテプ3世が始めた第10塔門の建設を再開したとされています。そして、ツタンカーメン王はアクエンアテン王がカルナクに造営したアクエンアテン王の建造物を解体しました。

図8. ルクソール神殿大列柱廊のツタンカーメン王のレリーフ。名前がホルエムヘブ王に書き換えられている。(ルクソール神殿)©︎ Nozomu Kawai
ツタンカーメン王は、カルナク神殿の中心軸や主要箇所に大きな痕跡を残しています。当時、カルナク神殿の正門であったとされる第3塔門の前には、有名な「信仰復興碑」(図7)を含む少なくとも2基のステラが設置されていました 。
アクエンアテン王の命令で消されたアメン神の像は、神殿の主軸に沿って修復されました。第6塔門の東側の壁には、アメン神に対する3つの修復碑文が残されています。「アクメヌウ」と呼ばれるトトメス3世の祝祭殿では、ツタンカーメン王が珪石製のアメン神とアマウネト女神の彫像を建立し、後に第6塔門の前に移されました(図9)。
もう一つのカルナク神殿の主軸には、同様にツタンカーメン王が第7塔門の前に石碑を設置しました。第8塔門には、アメン神などの神像がツタンカーメンによって修復されたようです。この前庭にはアメンヘテプ2世の王位更新祭用の祠堂が修復され、石碑が建てられたようです。第10塔門とムウト神殿の間にあるスフィンクス参道のスフィンクスは、アクエンアテン王とネフェルトイティ王妃を表す頭部から、あごの下に小さなツタンカーメン像を配した羊頭のクリオスフィンクスへと改造しました(図10)。
おそらく、「信仰復興碑」の複製がカルナク神殿群の各正門に建立されたとみられます。ツタンカーメン王はカルナク神殿に記念神殿を建て始めたようですが、この神殿は、どうやら初期段階では未完成のまま放置され、ツタンカーメン王の後継者アイが後継者として正統化するために、二重の記念神殿として完成させたと考えられます。
この神殿のモチーフでは、ツタンカーメン王がアメン神への儀式を行う様子が表されていますが、しばしばツタンカーメン王の後ろにはアイの姿が描かれています。この神殿の建材のほとんどは、ホルエムヘブ王によってカルナク神殿の第2塔門と第9塔門の充填物として再利用されたました(図11)。
さらに、ツタンカーメンの時代にテーベを中心に、大小さまざまなアメン像が建立・修復されました(図1、8、12)。その中には、王が小さく描かれたものもあり、アメン神によって守護されていたり、アメン大司祭として表されているものもあります。また、少年の顔をしたアメン神もあり、ツタンカーメン王がアメン神の化身として表されていました(図1、8、12)。これらの像は、ツタンカーメン王が「アメン神の生きる似姿」であることを示すために設置されたと考えられます。テーベ西岸では、アメンヘテプ3世記念神殿のアメン像も修復され、修復碑文も残されています。

図9. ツタンカーメン王の容貌のアメン神(左)とアマウネト女神。カルナク神殿。
©︎ Nozomu Kawai

図10. カルナク神殿第10塔門とムウト神殿の間のスフィンクス参道の羊頭のスフィンクスの顎の下に置かれていたツタンカーメン王の像。カルナク神殿域出土。(カイロ・エジプト博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai

図11. ツタンカーメン王の記念神殿のレリーフ・ブロック(カルナク神殿)©︎ Nozomu Kawai

図12. アクエンアテン王の治世に破壊され、ツタンカーメン王の治世に修復されたアメン神、ムウト女神、王の像。神々の上半身が破壊され、新しい石材が接合されている。エジプト・アラバスター製。カルナク神殿出土。(カイロ・エジプト博物館蔵)
ツタンカーメン王の復興事業の証拠は、他の上エジプトの遺跡でも認められます。ツタンカーメン王は修復箇所全てに修復碑文を残していませんが、その顔の特徴から、ツタンカーメン王による修復が明らかになることもあります。ツタンカーメン王は、ヌビア地域のファラスとカワの2ヶ所に神殿を建立しました。ファラスの神殿は、彼の黄金ホルスの名と同じ「神々を満足させる者」という名で呼ばれていました。そこでは、ツタンカーメン王は生前に神格化され、ソレブのアメンヘテプ3世の神殿と同様に信仰を集めていました。ツタンカーメン王は、ソレブ神殿のライオン像にも修復碑文を残しています。
ツタンカーメンの復興事業の立役者は、大将軍で摂政であったホルエムヘブにほかならないでしょう(図13)。私が再発見したカルナク神殿出土のホルエムヘブの書紀座像には、彼がカルナクのアメン神殿を修復し、荒廃していたテーベの街を拡大したと記されていますが、彼が仕えた王の名は記されていません。このことは彼の権力が大きかったことを示唆します。
実際の伝統的な神々の神殿の修復事業や神像の制作は、財務長官が実施したとみられます。アクエンアテン王の治世にはおそらくメリラー2世であったメリラーが、ツタンカーメンの治世に財務長官になりました。彼の方形彫像には、王が伝統的な神々への供物を捧げるために、全土での徴税を彼に命じたことが記されている。ツタンカーメン王の治世第8年までには、マヤが財務長官を継承しました(図14)。
ツタンカーメン王の治世第8年の石碑には、マヤはエレファンティネ(アスワン)からデルタにかけてのエジプトのすべての神々への供物を捧げるために徴税する責任を負っていたことが述べられています。ツタンカーメン王によるこれらのメリラーとマヤへの勅令から、アクエンアテン王によって一元化された財政の方向転換が行われ、財務長官が各地の神殿への寄進を復興させる役割を担っていたことを示唆しています。このような経済の大改革は、ツタンカーメンの治世を通じて行われました。

図13. ツタンカーメン王から褒賞を受ける大将軍ホルエムヘブ。サッカラ、ホルエムヘブ墓出土(オランダ国立ライデン古代博物館蔵)©︎NozomuKawai

図14. ツタンカーメン王の財務長官マヤ(右)とその妻メリト。サッカラ・マヤ墓(オランダ国立ライデン古代博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai
△ツタンカーメン王の宮廷
前述のように、ツタンカーメンは即位時に8歳前後だったため、側近が実権を握っていました。ツタンカーメン王の治世には、高官たちがそれまでの王家だけの特権だったことを融通することができました。アイが王家の祭祀へ参加できたことは、その一例です。
摂政であったホルエムヘブ将軍は、本来王の重要な役割であった有能な軍事的な指導者だけでなく優れた立法者として自らを描き、王と同様の属性を示しました。行政の重要な役割を担った財務監督官マヤでさえも、通常は王にしか使われない形容辞を採用しています。これらの有力な高官の中に本来王家の特権であった図像や称号が見られることは、実質的に行政や宮廷における伝統的な王家の機能が、この3人に委譲されていたことを示唆しています。
この3人の中で、最も強力な政治的地位を得たのは将軍ホルエムヘブでした。ホルエムヘブは、アクエンアテン王の下で将軍となり、後にエジプト軍の総司令官として頭角を現しました。アクエンアテン王の死後、国の政治的な不安定な状況を利用し、彼が伝統への復興の原動力となったのは明らかです。ホルエムヘブは軍の総司令官だっただけでなく、行政のすべての部門を支配していました。
王の摂政として、伝統的に王の下で行政を司るはずであった2人の宰相を明らかに凌駕していました。ツタンカーメン王のもとでは、実質的な政治のリーダーであり、少年王に代わって政治の指揮を執ったことは疑いありません。ホルエムヘブは、ツタンカーメン王の治世の終わりに、軍人としてではなく、自らを賢明な文官として意識的に表現しており、これは支配者としての能力を発揮することを意図していたと考えられます。
一方、アイは王に最も近い側近でした。彼は妻のテイとともに、アクエンアテン王の時代から王家に仕えていました。ツタンカーメンの治世のほとんどで、アイは行政官として政治的な権力を保持していませんでしたが、王の後見人として最も有力な人物でした。いずれにせよ、ホルエムヘブとアイは2人の宰相よりも上位に位置し、サッカラのツタンカーメンの乳母マヤの墓では王のすぐ後ろに描かれているほどです(図15)。

図15. ツタンカーメン王の側近たち。先頭に立つ2人がアイとホルエムヘブ。サッカラ・乳母マヤの墓。©︎ Nozomu Kawai
前述のように、「信仰復興碑」には、王が在地の有力豪族の子弟を神官に就かせたことが記されています。ツタンカーメンの治世以降、これらの重要な豪族の家族が、宗教と行政の両方で多くの重要な地位を占めました。
上エジプトには、これらの重要な役職を占めた有力な家系がいくつかありました。例えば、アメンヘテプ3世の時代に発展したアクミーム出身の人々の強い影響力は、ツタンカーメンの治世にも残っていました。
その中でもアイとセンケドは最も影響力が強く、王の後見人や養育係の監督官として宮廷で重要な役割を果たし、ナクトミンは将軍の一人としてツタンカーメン王を支えました(図16)。「ムウト女神の神の父」の称号をもつナクトミンを父に持ち、母がアイの妻テイの妹であるアイ某は、ツタンカーメン王のもとでアメン第2司祭に任命されました。
タエムウァジスウは、アクミーム出身でアメンへテプ3世の正妃ティイの両親ユウヤとチュウヤの子孫と思われ、ヌビア地域で大きな影響力を持っていました。彼女は「クシュの部隊長」カエムワセトと結婚し、後に「クシュの総督」アメンヘテプ・フイと結婚し、ファラスやカワの神殿でその影響力を保ちました。
さらに、コプトス地域のティニス出身のアメン大司祭パレンネフェル/ウェンネフェルは、ティニスのオヌリス大司祭を兼任し、その弟ミンメスはコプトスのミンとイシスの大祭司でした。パレンネフェル/ウェンネフェルの息子、ホリはツタンカーメン王の下でムト女神の大司祭に任命され、 後にオヌリスの大司祭として父の称号を受け継いでいます。
この一族は、アクミームの主要豪族と同様に、第19王朝、特にラメセス2世の治世を通じて、いくつかの重要な地位を占めました。ツタンカーメン王の宰相ウセルメンチュウもアルマント地方に影響力があったようです。彼の弟のフイは、アルマントのメンチュウ神の神官でした。また、ウセルメンチュウの部下であるハティアイは、メンチュウ神、セベク神、アヌビス神、コンス神の大司祭を兼任していました。

図16. ナクトミン像頭部。伝アクミーム、ナクトミン墓出土(ルクソール博物館蔵)
△ツタンカーメンの治世の終わりとその後
ツタンカーメンの死にまつわる出来事は、いまだ不明のままです。ツタンカーメンのミイラの最新の科学的研究により、彼は18歳か19歳頃、つまりおそらく治世第9年か10年の間に突然亡くなったことが明らかになりました。
ツタンカーメン王は、最終的には王家の谷の小さな墓に埋葬されましたが、この墓は本来は貴族の墓であったと思われます。本来の王墓は王家の谷・西谷に用意されたようですが、埋葬室に描かれた壁画の状態が示すように、急遽用意されたものでした。アイはツタンカーメンの後継者として葬儀を担当し、神官の衣装を着てファラオに扮し、ツタンカーメンのミイラに開口の儀式を施しています(図17)。
当時エジプトは、北部の国境に侵入してきたヒッタイトと軍事的な小競り合いをしていました。ツタンカーメン王の死期を示すエジプト側の資料はありませんが、ヒッタイト側の資料から、この出来事に関する情報が得られるようです(研究者によって異論があります)。
ヒッタイトの文献によると、ニプクフルリヤ(エジプト語では「ネブケペルウラー」、ツタンカーメン王の即位名)の死と、ヒッタイトの攻撃によるアムカでのエジプトの敗北が、ほぼ同時期に起こったとされています。ツタンカーメン王は後継者がいないことから、ヒッタイト王シュッピルリウマに、結婚してエジプト王となる息子を求めた前述の未亡人女王が、アンケセナーメン王妃だった可能性が指摘されています。
しかし、シュッピルリウマ王の息子ツァナンツァは、エジプトに向かう途中で殺害されたため、この並外れた計画は失敗に終わりました。その結果、ヒッタイトとの戦争は続いてしまったということです。そのため、アンケセナーメンは、最終的に即位したアイとの共同統治を目指したようです。
このような状況下において、ホルエムヘブはアイの下では失脚したようです。アイはホルエムヘブが王位を継承するのを防ぐために、自らの縁者であるナクトミンを「王の息子」「摂政」に任命し、後継者としました(。こうしてナクミンは、それまでツタンカーメンの下でホルエムヘブの部下であったにもかかわらず、ホルエムヘブよりも高い地位に昇格することになったのです。
しかし、ホルエムヘブは、アイの死後に王位に就くことになります。そして、アイとナクトミンの記念物を破壊し、記憶を抹殺しました。最終的に、ツタンカーメンの記憶も新しい王としてのホルエムヘブの王位継承を正当化するために、そのほとんどが抹殺されました。 そしてツタンカーメン王は、1922年にイギリスの考古学者ハワード・カーターが彼の墓を発見するまで、ほとんど無名の王となってしまったのでした。

図17. 死してオシリス神となったツタンカーメンに開口の儀式を行うアイ王(右)。ツタンカーメン王墓。©︎ Nozomu Kawai
参考資料:
河合 望『古代エジプト全史』雄山閣、2021年
河合 望『ツタンカーメン 少年王の謎』集英社新書、2012年
Nozomu Kawai, "The Time of Tutankhamun. What New Evidence Reveals," SCRIBE: The Magazine of the American Research Center in Egypt, Spring 2022 | Issue 9, pp. 44-53.
*本稿の英語版の原文は以下からダウンロード可能です。
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