後期青銅器時代におけるエジプト・西アジア・地中海世界のグローバリゼーション
- nozomukawai
- Jul 25, 2022
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Updated: Aug 25, 2022
本文→147〜211頁、図106
△はじめに
古代西アジアにおける後期青銅器時代という年代の枠組みは、前1550年頃の所謂「ヒクソス放逐」による新王国時代の開始から、前1200年頃までとされています。前1200年頃は、ヒッタイトのみが独占していた鉄器の生産技術が東地中海や西アジア各地に広がり、ヒッタイト、ミケーネ文明が崩壊し、所謂「海の民」の襲撃があった「前1200年の破局」の時期です。数年前にクラインによって1177B.C. The Year Civilization Collapsed『B.C. 1177 古代グローバル文明の崩壊(日本語版)』が出版されベストセラーとなり、この時期が西アジアおよび地中海世界の古代文明の崩壊期として話題になりました。
後期青銅器時代は、エジプト、バビロニア、ミッタニ(ミタンニ)、アッシリア、ヒッタイト、アラシア(キプロス)、アルザワ(南アナトリア)の間で所謂「列強のクラブ(Club of Great Powers)」が形成され、国際外交が展開された時代です(図1)。これらの地域は、複雑な文化、政治、経済のネットワークによって相互に連関しあい、この時代にエジプト、西アジア、地中海世界の本格的な「グローバリゼーション」が発達しました。以下では、近年の当該地域における最新の考古学的調査研究の成果や議論を踏まえ、後期青銅器時代におけるエジプト、西アジア、地中海世界の「グローバリゼーション」について解説しましょう。

図1.後期青銅器時代の古代エジプト・西アジア・地中海世界(本書 図106)
△ミノア文明のモチーフによるフレスコ画
エジプトと西アジアで、地中海世界との間に直接的な交流が見られるのは、紀元前17世紀後半から16世紀前半にかけての時期です。当時東地中海沿岸で最も発展していた都市は、エジプトの所謂「ヒクソス」の都アヴァリス(テル・アル=ダブア)である。アヴァリスは中王国時代から発展したエジプトにおける地中海の玄関の役割を果たした港湾都市で、西アジア系の「ヒクソス」王朝が支配し、西アジアや地中海地域の物質文化が色濃く認められます。特に戦闘用二輪馬車や複合弓などの軍事技術がエジプトに導入され、皮肉なことに新王国時代にエジプトがオリエント世界最大の版図を築くことができた要因の一つとなりました。
1990年代に、このアヴァリスの王宮址から「牛飛び」などのミノア文明のモチーフによるフレスコ画の破片が大量に出土し、トトメス3世・ハトシェプスト女王共同統治時代に造営された王宮の壁を飾っていたことが明らかとなっています(図2)。同じようなフレスコ画は、アヴァリスのみならず、イスラエルのテル・カブリ、シリアのアララク、カトナからも出土しており、これらの壁画の様式は「国際様式」とも呼ばれています。このことは、当時エーゲ海とエジプト、シリア・パレスチナ地域との密接な文化交流があったことを物語っています。

図2.テル・アル=ダブア遺跡(アヴァリス)出土の「牛跳びの図」のフレスコ画復元図
△エジプト、テーベの貴族墓の朝貢図
エジプトのテーベ(現在のルクソール)西岸の貴族墓では、新王国時代第18王朝のトトメス3世・ハトシェプスト共同統治時代からアメンヘテプ2世の治世に至る高官の墓に西アジア、アフリカ、地中海からファラオへ貢物を運ぶ使節と考えられる人物像が描かれています(図3)。まさにこの時代は、「ヒクソス」の放逐後に西アジアやヌビアへの遠征が繰り返され、エジプトがオリエント最大の帝国になった時代です。使節と考えられる人物は、それぞれの土地の様々な物産を貢物として運んでおり、エジプトと西アジア、アフリア、地中海地域の支配者間の贈与関係を示すものであり、当時のグローバル化した文化交流の様相を示しています。

図3.クレタ等から貢物を運んできたミノア人たち、ルクソール西岸、レクミラ墓
©︎ Nozomu Kawai
△アマルナ文書に見られる後期青銅器時代における国際外交
前述のように後期青銅器時代の古代オリエント世界では、勢力の拮抗する国々が覇権を争う状態になりました。南メソポタミアにはバビロニア、北メソポタミアにはアッシリア、バビロニアの東部にはエラム、アッシリアの西方にはミッタニ(ミタンニ)、アナトリアにはヒッタイト、そしてエジプトです。これらの国々は直接衝突することもありましたが、多くは外交手段を駆使して共存する道を模索しました。盛んに国際条約が結ばれ、頻繁に外交文書と贈答品が取り交わされ、国際的な政略結婚が行われました。これらの列強の狭間にあった小国は、情勢に応じて、異なる宗主国の傘下に入りました。そのため、後期青銅器時代のオリエント諸国の勢力版図は刻々と塗り替えられたのです。
1887年にエジプトのアル=アマルナから出土した約400の楔形文字粘土板文書(「アマルナ文書」)は、紀元前14世紀半ばの約60年間に及ぶ国際交流に関する情報を提供する極めて重要な文字史料です(図4)。アマルナ文書の大多数は、西アジア諸国からエジプトのファラオ、アメンヘテプ3世とアメンヘテプ4世(アクエンアテン)に送られた外国文書です。言語は、主に当時国際共通語であったアッカド語が使用されていました。
アマルナ文書は、2つのグループに分けられます。1つは、ファラオを「我が兄弟」と呼ぶ列強諸国、すなわち、バビロニア、アッシリア、ミッタニ、アルザワ、アラシア、ヒッタイトの王たちからの書簡、もう1つは、ファラオを「我が主人」と呼ぶ小都市国家の王たちからの書簡です。これらの小都市国家とはエジプトに臣従していたシリア・パレスチナのアムル、カトナ、ウガリット、ビブロス、シドン、ティルス、エルサレムなどでした。後期青銅器時代は、古代オリエント世界でまさに「国際政治」の時代が始まった時代でした。

図4.アマルナ文書(「リブアッディの書簡」EA 362)(ルーヴル美術館蔵)
©︎ Nozomu Kawai
△後期青銅器時代における国際交易
後期青銅器時代の国家間の相互の影響は、資源保有の不平等の結果によるものです。特に鉱物および金属資源の分布は、当該地域の関係を生み出しました。青銅に必要な銅と錫は、それぞれキプロスとアフガニスタンで産出され、鋳塊の形で交易品として運搬されました(図5)。銀はアナトリアで豊富に埋蔵されていました。西アジアには金を埋蔵している地域はなく、エジプトのみがヌビア産の金を独占していたのです。貴石に関しては、以前交易品として流通していたアフガニスタン産のラピスラズリ、イランおよびインド産の紅玉髄(カーネリアン)と瑪瑙は、後期青銅器時代になるとガラス製の人工石に取って代わられました。
天然資源に限らず、地域固有で発達した技術の産物も重要な交易品でした。代表的なものは、戦闘用二輪馬車で、エジプトは、前1300年頃のアマルナ時代に馬と戦闘用二輪馬車をシリアのミッタニ(ミタンニ)から輸入し、ガラスのインゴットをレヴァントから輸入していました。

図5.銅のインゴット(牛皮型鋳塊)(アテネ考古学博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai
△ウルブルンの沈没船
後期青銅器時代の交易に関する具体的な考古資料として取り上げなくてはならないのは、トルコ南西部に位置するウルブルン岬の東側から発見された沈没船です。この沈没船は、米国の水中考古学者ジョージ・バスによって1982年に発見されました(図6)。発掘調査によれば、船に積載されていた大部分の物は、約10トンの銅と1トンのほぼ純粋な錫でした。銅の大半は、牛皮型鋳塊(Oxihide ingot)354点と円盤状鋳塊130点以上の形で積載されていました。また青銅の材料である錫の牛皮型鋳塊は、おそらくアフガニスタン産であると推測されています。
これらの金属鋳塊の他に、沈没船からは、ピスタチオの樹脂やテレビン油を詰めた149点のカナーン式アンフォラ、ガラスのインゴット、黒檀、杉、象牙、ガチョウの卵、雄黄(黄色顔料の一種)などが検出されています。これらは、この船が西アジア、アフリカ、地中海の各地からの貴重な交易品を満載したものであったことを示しています。その他には、135点のキプロス製土器が出土しているのが特筆に値します。これは、キプロス製の土器がエーゲ海からあまり見つかっていないのと対照的です。また、積載されたランプや石製錨の類例がシリア・パレスチナ方面に求められ、この船の本拠地がこれらの地域にあったことを示唆しています。さらに、エジプトのアクエンアテン王の王妃ネフェルトイティの銘のある金製の指輪も見つかっています。以上のように、ウルブルンの沈没船は、後期青銅器時代の国際的な交易ネットワークの様相を知る上で極めて重要な情報を提供しています。

図6.ウルブルンの沈没船の展示(ボドラム水中考古学研究所)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Turkey.Bodrum091.jpg
△グローバリゼーションと後期青銅器時代の終焉「前1200年の破局」
以上のような後期青銅器時代のエジプト、西アジア、地中海世界における国際交流は、いわゆる「前1200年の破局」によって断絶します。これは東地中海地域に起きた災厄で、ヒッタイトの崩壊、エジプトにおける「海の民」の襲撃、ギリシャのミケーネ文明の崩壊の時期です。要因については諸説あり、研究者の間で見解の一致を見ていません。これまで地震要因説、気候変動による飢饉要因説、民衆蜂起要因説、エーゲ、西方アナトリア、キプロスから北シリアへの異民族侵入説、国際交易への依存による物資の供給の問題などが指摘されていますが、要因は1つに求められるのではなく様々な要因が複雑に関係して、最終的に東地中海地域の諸文明を崩壊に導いたと指摘されています。クラインは、後期青銅器時代の当該地域の諸文明は、それぞれが独自の社会政治システムを発展させ、崩壊に至った一方で、相互に依存しかつ複雑な関係を持った国際的な交易ネットワークが経済の不安定な状況を生み出したとしています。
後期青銅器時代にエジプト、西アジア、地中海世界で展開した「グローバリゼーション」は、国際外交、国際交易によって、これまでにないほどの文明の発展をもたらしましたが、皮肉なことにそれが主要因とは言えないにせよ、後期青銅器時代の終焉をもたらした要因の1つと考えられるでしょう。
参考資料
Aruz, J. 2008. Beyond Babylon. Art, Trade, and Diplomacy in the Second Millennium B.C., New York: Metropolitan Museum of Art.
Aruz, J. Graff, Sarah B, and Rakic Y, eds. 2013 Cultures in Contact: From Mesopotamia to the Mediterranean in the Second Millennium B.C., New York: Metropolitan Museum of Art.
Bass, G.F. 1986. A Bronze Age Shipwreck at Ulu Burun (Kas): 1984 Campaign. American Journal of Archaeology 90/3: 269-96.
Bietak, M. 1992 Minoan Wall-Paintings Unearthed at Ancient Avaris. Egyptian Archaeology 2: 26-28
Cline, E 2014. 1177B.C.: The Year Civilization Collapsed, Turning Points in Ancient History, New Jersey: Princeton University Press.(安原和見訳『B.C. 1177 古代グローバル文明の崩壊』筑摩書房、2018年)
Rainey, A. et al. 2014. The El-Amarna Correspondence. Leiden: Brill.
Van De Mieroop, M. 2007. A History of the Ancient Near East ca. 3000-323 BC. 2nd Edition. Malden, MA: Blackwell Publishing.
テル・アル=ダブアのフレスコ画のウェブサイト
ウルブルンの沈没船に関するウェブサイト
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