リビア人と「海の民」の侵入
- nozomukawai
- Aug 26, 2022
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本文→206-211頁
△古代エジプトとリビア
エジプトの西側には、現在リビアという名の国が位置しています。この地域に関しては、先王朝時代末のナカダIII期に年代づけられる通称「チェヘヌウ・パレット」と呼ばれる遺物に、古代エジプト語のリビアを表す「チェヘヌウ」のサインが表されており、そこには木々や動物たちの列が描かれた場面が連続して表されています(図1)。この「チェヘヌウ」の意味については、デルタ地帯の西部という説と現在のリビアのあたりを指すという説があります。
王朝時代の古代エジプト人は、ナイル川のデルタ地帯の西側の地域と西部砂漠の地域をそれぞれ「チェヘヌウ」と「チェメフウ」と呼んでおり、新王国時代になるまであまり注目されていませんでしたが、新王国時代第19王朝になると、メシュウェシュ族とリブ族という新しい部族が、チェヘヌウの地に定着しました。これは、キュレネとその後背地から移住した人々であると推測されています。
キュレネは、エジプトのデルタ地帯のはるか西に位置していますが、この時代になると彼らが徐々に東に移動し、エジプトを脅かす勢力となっていました。ラメセス2世は、デルタ地帯の東のシナイ半島のいわゆる「ホルスの道」沿いに砦群を造営しましたが、同じようにデルタ地帯の西端にも砦群を建設し、チェヘヌウの民に備えました。しかし、それでも彼らは平和的にエジプトに移住し、移民は相当な数となりました。特にメシュウェシュ族は、商業活動に携わっていたようです。

図1.チェヘヌウ・パレット、先王朝時代、ナカダIII期、アビドス出土(カイロ、エジプト博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai
△メルエンプタハ王の治世のリビアと「海の民」との戦い
チェヘヌウの民の移住はとどまることを知らず、ラメセス2世の後継者であるメルエンプタハ王の治世第5年には、大規模な軍事遠征が行われました。この軍事遠征の様子は、イスラエル人が初めて史料として記録された有名な「イスラエル碑」(図2)に記されています。
それによると、治世第5年に首長メリウイ率いるリビアの諸部族と、地中海地域のシェルデン、シェクレシュ、トゥルシャ、ルッキなどの部族からなる所謂「海の民」の連合軍が侵攻を開始したと記録されています。「海の民」とは、飢饉により食料の豊かな地中海沿岸に定住地を求めていたエーゲ海や小アジア半島に起源を持つ民族の集団です。エジプトは豊かな土地を持っていたので、これらの民族集団は移住を企てたのでした。碑文には、メルエンプタハ王がリビア人と「海の民」の連合軍を撃退し、6000人以上を殺し、9000人以上の捕虜を得たと書かれています。

図2.「イスラエル碑」、新王国時代第19王朝、テーベ西岸、メルエンプタハ王葬祭殿出土 (カイロ・エジプト博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai
△ラメセス3世の治世のリビアと「海の民」との戦い
リビア人と「海の民」の移民の不穏な動きにたいして、第20王朝のラメセス3世が再び対峙することになります。ラメセス3世の治世5年に、リビア人がデルタ地帯西部に再び侵入してきました。これはリブ、メシュウェシュ、セペドの諸部族の連合軍で、ラメセス3世はこれらを鎮圧しました(図3)。この時の敵の戦死者は12500人で、捕虜は1000人以上だったということです。しかし、敗北にもかかわらず、リブ族とメシュウェシュ族はデルタ地帯西部のカノポス支流付近まで定着し、攻撃と略奪を繰り返しました。
そして、治世8年には、ラメセス3世の最大の戦いである「海の民」との戦いがありました。かつてメルエンプタハ王によって撃退された「海の民」は、新しい民族を主体として勢力を挽回しました。そして、アルザワ、アラシア(キプロス)、カルケミシュを滅ぼし、北シリアのアムル地方からエジプトに向かって陸と海とで地中海沿岸を南下していったのです。ラメセス3世は、エジプトの国境線で侵入してくる「海の民」を迎え撃つことになったのです。
ラメセス3世と「海の民」との戦いは、テーベ西岸メディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿の壁面に碑文と図像で記されています。特に北壁には、大きく描かれたラメセス3世が数多くの船に乗って攻めてきた「海の民」に弓で射る様子が表現されています(図4)。このレリーフには初めてエジプトの海軍も描かれており、海上で海の民と戦闘している様子が詳細に描かれています。ラメセス3世の軍は陸戦、海戦ともに勝利に終わり、エジプトは「海の民」の脅威から放たれました。しかし、「海の民」の一部は目的とするエジプトでの定住を果たすことができました。シェルデン、トゥルシャといった部族の戦争捕虜(図5)の一部は、傭兵としてエジプト軍に仕えました。またペルシェト、チェケルの部族は、対ベドウィンの防備としてパレスティナ南部の海岸地方に植民されました。パレスティナという地名は、実はこのペルシェト(フリスティア人、旧約聖書のペリシテ人)に由来します。
「海の民」を撃退したあと数年間は平和な時代が続きましたが、再びデルタ地帯西部でリビア人が活発な動きを見せました。前述の治世5年の侵入は略奪を目的としたものでしたが、治世11年にはエジプトへの定住を試みて侵入してきました。侵入してきた部族はメシュウェシュ族で、家族、家畜ぐるみでエジプトに入り込んできました。ラメセス3世は治世第11年の対戦でもリビア人の軍勢を破り、2000人以上を殺したと記録されています。これにより、エジプトは豊かな戦利品を得、テーベのアメン神殿に莫大な富が寄進されました。この戦いの様子もメディネト・ハブのラメセス3世の葬祭殿の壁面に描かれています。

図3.ラメセス3世の軍に成敗されるリビア人部族、テーベ西岸、メディネト・ハブ、ラメセス3世葬祭殿 ©︎ Nozomu Kawai

図4.ラメセス3世の「海の民」との海戦のレリーフ、テーベ西岸、メディネト・ハブ、ラメセス3世葬祭殿 ©︎ Nozomu Kawai
*線画は、『古代エジプト全史』210頁をご覧ください。

図5.捕虜となった「海の民」の兵士、テーベ西岸、メディネト・ハブ、ラメセス3世葬祭殿 ©︎ Nozomu Kawai
参考資料
Cline,E. 2014.1177B.C.:TheYearCivilizationCollapsed,TurningPointsinAncientHistory,
New Jersey:PrincetonUniversityPress.(安原和見訳『B.C.1177古代グローバル文明の崩壊』筑摩書房、2018年)
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