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初期王朝時代から古王国時代のメンフィスとそのネクロポリス

Updated: Jan 26, 2022

本書→66〜116頁、図36・37・39・46・51


△初期王朝時代の首都「メンフィス」

古代エジプト最初の首都「メンフィス」は、前3000年頃の王朝時代の開始以来、古代エジプトの極めて重要な行政や経済の中心地でした。この地名は、南サッカラに位置する古王国時代第6王朝のペピ1世のピラミッド複合体の名前「メン=ネフェル」(「確固たる美しい」の意)のギリシア語訛りの表記です。ちなみに現在のミート・ラヒーナ村の「メンフィスの遺跡」に位置するプタハ神殿複合体は、「フウト・カー・プタハ(プタハ神のカーの館)」と呼ばれ、これがギリシア語に訛ってアイギュプトストなり、現在の国名エジプトとなりました。


 近年のボーリング調査によると、初期王朝時代のメンフィスは、サッカラ遺跡の北東に位置するアブ・シール村付近に存在していたと考えられています。調査を実施したロンドン大学考古学研究所のデビッド・ジェフリーズによれば、初期王朝時代のナイル川は、今日よりも西側に位置し、徐々に東側に流路を変え、メンフィスの位置もナイル川の流路の変化に伴い、東側に移動していったとのことです。現在の「メンフィス遺跡」は、中王国時代以降の集落や神殿が中心ですが、現代の居住地が広範囲に覆っているため、発掘調査が進展しておらず、依然として全貌は把握できておりません。また、エジプト考古学は集落の調査よりも巨大な記念建造物や豊富な副葬品が出土する墓の調査が盛んであったこともメンフィスの研究が遅れている要因と考えられます。


 メンフィスに居を構えていた王や高官は西側の砂漠に位置するサッカラを始めとする広大なネクロポリスに埋葬されました。このメンフィス・ネクロポリスは、北はアブ・ロアシュ、南はダハシュールまでの約35kmの長さの広大な墓域です(図1)。古王国時代と中王国時代には王のピラミッドが各地に造営され、王朝時代にわたって主要な墓域として発展しました。その豊富な遺構、遺物の埋蔵量からエジプト考古学における中心的な調査地となっており、現在でも各国の調査隊による活発な発掘調査が継続されています。


図1.メンフィス・ネクロポリスの主要遺跡 ©︎ Google Earth


△初期王朝時代のネクロポリス

 初期王朝時代メンフィスの高官の墓は、サッカラに造営されました。これらの墓は、日干レンガ製のプラットホーム状の上部構造を持ち、地下に埋葬室がしつらえられた通称「マスタバ墓」という形式の墓です(図2)。第1王朝における王墓は、上エジプトのアビドスに造営されましたが、第2王朝になると少なくとも3人の王がサッカラに王墓を造営しました。これらの王墓は、アビドスに造営された王墓と異なり、多数の通廊を持つ複雑な地下構造を持ち、来世における王宮を表したものと考えられています。

 

 また第2王朝の末には、アビドスに造営された葬祭周壁に類似した構造の南北約650m×東西約350mの巨大な矩形の周壁、「ギスル・アル=ムディール」が造営され、サッカラにおける王による建造物の造営が活発化しました。このような初期王朝時代の王墓および王の葬祭建造物の発展の頂点が、サッカラに造営された古王国時代第3王朝のジェセル(ネチェリケト)王の階段ピラミッドです。この最初のピラミッドは、第2王朝の2基の王墓の北に位置し、北東のアブ・シール湖の方角に伸びる巨大なワディにも接する位置にあります。アブ・シール湖は、現在のアブ・シール村付近に位置した当時のメンフィスの位置に近く、この湖から巨大なワディ(涸れ谷)に入るルートが、当時のサッカラ墓地の主要なアクセス・ルートであったと考えられています。



図2.サッカラの初期王朝時代のマスタバ墓群 ©︎Nozomu Kawai


△第4王朝のピラミッド建設

 第3王朝にサッカラで2基の階段ピラミッドが造営された後、ピラミッドはサッカラ以外の場所に造営されるようになりました。第4王朝初代のスネフェル王は、まずファイユーム盆地に近いメイドゥームにピラミッドを造営しました。このピラミッドで初めて河岸神殿、参道、葬祭殿をピラミッドの東側に配した複合体が出現しました。メイドゥームは、首都メンフィスから約50km南に位置しており、ここにピラミッドが造営された理由については、ピラミッドの建設が可能な良質な石灰岩の岩盤が存在することと周囲に人口密度の高い中心的な集落が存在し、ナイル川とファイユーム盆地の結節点に位置したためと考えられている。ちなみに、メイドゥームという地名の語源は、古代エジプト語のメリ・アトゥム(「アトゥム神に愛されし者」の意)に由来すると考えられています。アトゥム神は、世界を創造した太陽神です。最初に真正ピラミッドを建設しようとしたスネフェル王の試みは、太陽神信仰と関係していたのかもしれません。


 しかし、このピラミッドの建造は失敗に終わり、スネフェル王は治世第16年にダハシュールでピラミッドの建設を開始しました。このピラミッドは、メイドゥームのピラミッドよりも大型のピラミッドとして計画されていましたが、建設途中でピラミッドの内部に亀裂が生じたため、角度を変更して体積を軽くして、屈折ピラミッドとなりました。スネフェル王は、最終的に赤ピラミッドで知られる方錐形のピラミットを屈折ピラミッドの北に完成させ、王は最終的にここに埋葬されたとみられます。


 チェコのエジプト学者、ミロスラフ・バルタは、スネフェル王の時代が大きな社会的画期に位置づけられると指摘しています。この時代に膨大な資源と労働力が、ピラミッド建設に向けられ、王以外の葬祭祭祀や墓の規模は小型化しました。これに伴い、日々の祭祀の維持を目的とした、規格化された供献用ミニチュア土器が回転轆轤で生産されるようになり、石製容器の代用土器として「メイドゥーム・ウェア」が出現しました。この変化は、王権によってピラミッド建設の重点化が図られ、葬祭儀礼が規格化されたことを意味します。


 続くクフ王は、ギザに最大のピラミッドを造営しました。ギザ台地は、巨大なピラミッドを造営するのに適した立地条件を満たしていたからです。ドイツのエジプト学者、シュターデルマンは、ピラミッドの造営地の移動について、王都の移動をその理由に挙げていますが、クフ王が王都を移動したためにギザにピラミッドが建設されたのではなく、バルタが指摘しているように、ピラミッドの建設のために数千人の労働者のための居住施設、食料生産のための工房、食料の供給が近傍で新たに維持されなければならなかったと考えられます。


 アメリカの考古学者、マーク・レーナーによるギザ墓地の南西に位置するピラミッド建設労働者の居住地(図3)の調査は、従来の古王国時代の理解を大きく塗り替えました。ピラミッド建設労働者の居住施設とみられる遺構も検出されており、1600〜2000名の労働者を収容できたといいます。そのほかに自給自足が可能な宿泊施設、ピラミッド建設監督官の領地、倉庫、パン焼窯、穀倉庫、行政施設、恒常的な労働者住居などが明らかになっています。


 クフ王による大ピラミッドの建設は、スネフェル王以上に王以外の人物の葬祭施設の制約をもたらしました。クフ王の王族や高官のマスタバ墓は、王のピラミッドの周囲に標準規格化された配置を示しています。また、マスタバ墓の装飾は、石版ステラ(図4)のみに制約されました。このことから、クフ王の時代は、非常に中央集権化した時代であったことが推測されます。


図3.ギザのピラミッド労働者の居住地の遺跡(遠方)©︎ Nozomu Kawai


図4.ネフェルトイアベトの石板ステラ(第4王朝、ギザ出土)、ルーヴル美術館蔵

©︎ Nozomu Kawai


クフ王の後継者ジェドエフラー王は、ギザから数㎞北に位置するアブ・ロアシュの丘陵頂部に古王国時代で最も高い標高に位置するピラミッド(図5)を造営しましたが、次のカフラー王は再びギザ台地に戻り、クフ王のピラミッドの南西に自らのピラミッドを造営しました。また、彼は太陽神ラーとの関係をより強固にするため、スフィンクスと太陽神ラーに捧げた神殿を造営しました。カフラー王の後継者メンカウラー王は、カフラー王のピラミッドの南西に先代2基のピラミッドの体積の8分の1の規模のピラミッドを造営しました。このピラミッドから、巨大モニュメントよりもピラミッド複合体の象徴性が増加し、葬祭殿内部の倉庫の規模に重きが置かれるようになったと考えられています。


図5.アブ・ロアシュのジェドエフラー王のピラミッドの下降通廊 ©︎ Nozomu Kawai


△第5王朝・第6王朝のピラミッドと高官の墓

 第5王朝初代のウセルカフ王は、再びサッカラにピラミッドを造営しました。ただし、ピラミッドに加えて、アブ・シールに太陽神殿を建造しました(前回の記事参照)。以降、第5王朝の王はアブ・シールでピラミッドを造営するようになり(図6)、同時に太陽神殿も造営することとなります。第5王朝のピラミッドではピラミッドそのものの小型化に伴い、葬祭殿の装飾が増え、倉庫の面積が拡大の一途を辿りました。さらに第6王朝になるとサッカラを中心に王のピラミッドが造営されましたが(図7)、これらの王のピラミッドの寸法は標準規格化され(本書図36)、葬祭殿内部の倉庫の面積が最大となります。壁画装飾の増加と葬祭殿の倉庫の面積の拡大は、ピラミッド複合体において祭儀が重視されたことによるものと指摘されています。一方、高官の墓は厳しく規制された第4王朝とは異なり、第5王朝以降は王のピラミッドの位置との関係で規制されなくなりました。特にニウセルラー王の治世において、高官の墓が豪壮化し、家族墓が発展しました。これは役人の世襲化と関連すると考えられています。第6王朝になると家族墓が隆盛となるだけでなく、高官の墓が上エジプトの諸地方に造営されました。これは王家の墓地に埋葬されるよりも、在地のエリートとの関係の強化が重要であると考えられたためとされます。このように古王国時代の王権の衰退と、それに変わる地方豪族の権力の強化は、当時の墓制からも窺えます。


図6.アブ・シールのサフラー王のピラミッド(第5王朝)©︎ Nozomu Kawai

図7.ペピ2世のピラミッド(南サッカラ)


参考資料

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