古代エジプトの古典文学
- nozomukawai
- Feb 25, 2022
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→本文123〜134頁、口絵21
本書『古代エジプト全史』は、政治史あるいは考古学的な成果についてはまとめられていますが、文学などをはじめとする文化史の記述がほとんど無いことが弱みだと思います。中王国時代は、古代エジプトにおける古典文学が形成された時代で、本文にも歴史に関係の深い文学作品についての記述はありますが、その内容については触れていないのでここで紹介したいと思います。
△中エジプト語の出現
今から200年前の1822年ににフランスの言語学者、ジャン・フランソワ・シャンポリオンによってヒエログリフ が解読されました。その後研究が進み、古代エジプト語は文章語の変化に従って、古エジプト語、中エジプト語、新エジプト語、デモティック、コプト語の5つに分けられています。
古エジプト語は初期王朝時代、古王国時代から第1中間期前半まで、中エジプト語は第1中間期後半、中王国時代、第2中間期を経て、新王国時代第18王朝のアマルナ時代以前まで、新エジプト語はアマルナ時代以降の新王国時代から末期王朝時代前半まで、デモティックは末期王朝時代後半、プトレマイオス朝時代を経て、ローマ支配時代まで使用されました。最後のコプト語は紀元後300年頃にエジプトのキリスト教徒がギリシャ文字にいくつかのデモティックの文字を加えたコプト文字を使用してからの段階です。
古エジプト語の文章表現の例が増えてくるのは、古王国時代後半に出現した『ピラミッド・テキスト』や貴族の墓碑銘からですが、文章としては不完全なものが多い傾向があります。第1中間期後半から出現した中エジプト語は、文章語としてほぼ完成しており、言語の細やかなニュアンスなども表現できるようになりました。これにより中王国時代では古代エジプト文学の古典文学と呼ばれる作品が生み出されるようになったのです。
現在我々が古代エジプト語を学習する場合は、中エジプト語(Middle Egyptian)から学習するのが一般的です。しかし、この中エジプト語はかなり難解で、私自身勉強を始めた頃は何度も挫折しました。個人的には古代エジプト語は日本語よりも欧米語の順番に近いので、私は英語のテキストから勉強してようやく理解できるようになりました。
△中王国時代の古典文学
古王国時代が崩壊し、第1中間期になると王権が著しく弱体化し、古王国時代のような神の化身として絶大な権勢を誇った王権は過去のものとなり、今や王は混乱した時代の秩序をどのように構築すべきか、新時代の王はどうあるべきかが問われるようになりました。
第1中間期の王としての心構えを父王が王子に教える『メリカラー王への教訓』や、中王国時代の『アメンエムハト1世の教訓』(写真1)といった王に対する教訓がそのような問いを記しています。また、中王国時代に強力な国家を再建するには、王に忠実な高官が必要とされ、父が子に書記になることを勧め、それ以外の職業がいかに悲惨であるかを記した『ドゥアケティの教訓』などが残されています。
また、民衆も現実の生活の意味と来世のための葬祭儀礼に疑問を抱いて、詩的表現で記した『生活に疲れた者と魂との対話』、社会の混乱を描写して、行動規範を示した『イプウェルの訓戒』、享楽主義的に現世を楽しむように謳う『竪琴弾きの歌』などがあります。古王国時代第5王朝の成立を正当化するための物語『ウェストカー・パピルスの物語』も、中王国時代に書かれたと考えられています。葬祭文学では、古王国時代後半に書かれた『ピラミッド ・テキスト』は、中エジプト語風に改訂された『コフィン・テキスト』に発展しました。

写真1 『アメンエムハト1世の教訓』(大英博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai
△『シヌヘの物語』と中王国時代の物語文学
文章語として完成した中王国時代に出現した「中エジプト語」により、多くの「物語文学」が作られるようになり、古代エジプト文学の古典的な作品が開花しました。特に最高傑作とされるのが、『シヌヘの物語』(写真2)です。この物語は、中王国時代第12王朝のセンウセレト1世の治世頃に制作されたと考えられており、残存している最古のものは同じ第12王朝のアメンエムハト3世の治世にパピルスに書かれたものです。後世の写本の年代に基づけば、『シヌヘの物語』は約750年間も読まれていたことになります。書記学校ではたびたび『シヌヘの物語』の筆写が行われ、多くのオストラコンが残されています(写真3)。以下、『シヌヘの物語』のストーリーの概要を紹介します。全編は、ちくま学芸文庫の『エジプト神話集成』で読むことができます。実際にエジプト語で「シヌヘの物語」を読むと実に難解です。
王の後宮の高官であるシヌヘ(サネヘト)は、センウセレト1世のリビア遠征に従軍中、父王アメンエムハト1世の暗殺の知らせを立ち聞きして恐怖に襲われ、シリア・パレスチナ方面へ亡命します。不思議なことに、シヌヘがなぜ逃亡したのかについては語られていません。彼はセンウセレト1世の地位が失われることを恐れたのか、彼が暗殺の共謀者として疑われるのを恐れたのかはわかりません。ともかく、彼は諸国を放浪した末、ベドウィンの族長アムネンシに出会い、娘を妻として与えられなど厚遇を得て、有力者となります。しかし、歳を重ねるにつれて望郷の念にかられたのでした。そして、エジプト王となったセンウセレト1世からシヌヘの帰国を促す親書が届き、シヌヘは富も家族も捨ててエジプトに帰国し、王の許しを得て廷臣の地位を回復し、最終的には王に埋葬の準備を整えてもらい、幸福な生涯に幕を閉じます。

写真2 『シヌヘの物語』のパピルス(ベルリン・エジプト博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai

写真3 『シヌヘの物語』のオストラコン(大英博物館蔵)©︎ Nozomu Kawai
物語は、シヌヘが自らの生涯を語るという形式をとっており、シヌヘの異国での冒険譚が描写されていますが、物語の本来の意図は、エジプト人にとっての秩序、エジプト人にとっての理想の生涯を描くことでした。ファラオの秩序の外で生きることにより、王の保護を失うことがどんなに苦痛であるか、そして、死後に母国エジプトで理想的にミイラとして副葬品とともに墓に埋葬されないことがどれだけの恐怖であるかを示すことでした。つまり、『シヌヘの物語』は、古代エジプト人にとって、ファラオに忠誠を誓い、秩序(マアト)に従って生き、それによってナイル川のほとりで慣例に従い埋葬されることが永遠の生命を保証することになることを伝えているのです。
ちなみに、ノーベル文学賞を受賞したエジプトの作家ナギーブ・マフフーズは、1941年に『シヌヘの帰還』という小説を発表しており、1945年にミカ・ワルタリが発表した『エジプト人』の主人公はシヌヘという名です。これは1954年にハリウッド映画になりました。古代エジプト文学の傑作『シヌヘの物語』は、現代の読者にとっても十分鑑賞に堪えるものと言えます。
同時代の「物語文学」として重要な作品としては、『雄弁な農夫の物語』と『難破した水夫の物語』があります。前者では、ワディ・ナトルーンの貧しい農夫が旅の途中に荷物を奪われ、その不当を9回裁判長に訴えます。絶望の末に自殺しようとしたとき、ようやく農夫は主張が認められ、荷物を返してもらうことができました。後者は、ある水夫が難破してたどり着いた島で、神である大蛇に出会う冒険物語です。最終的には大蛇は水夫をエジプトに送り届け、彼に感謝されます。そして、王に接見され、再び王の水夫に任命されました。
『シヌヘの物語』に代表されるこれらの物語文学は、「古典」として長く読み続けられた単なる文学作品ではなく、教育を目的としていました。「教訓文学」と同様に書記学校の生徒に繰り返し筆写されたのは、人としての正しい生き方を教える作品だったからです。いずれの物語も極限状態の人間を描き、秩序(マアト)と対比されています。最終的には、手本を示し、正しく生きることを教えているのです。
こうしたエジプト人の理想化された生き方を書記学校で積極的に教えることによって、中王国時代には王に忠実で有能な高官が大量に養成され、複雑な官僚体制を支えることができたのです(写真4)。このような中で、文学作品は、教育の普及によって広く定着し、表現力にも磨きがかけられ、優れた作品が生み出されました。中王国時代は、まさにエジプト古典文学の最盛期でした。

写真4 「書記座像」(古王国時代、ルーヴル美術館蔵)©︎ Nozomu Kawai
参考資料
古代エジプトの文学作品の和訳:
杉勇・屋形禎亮『エジプト神話集成』ちくま学芸文庫、2016年
ミカ・ワルタリ『エジプト人』角川文庫、1989年
河合 望「シヌヘの物語」鈴木董・近藤二郎・赤堀雅幸(編)『中東・オリエント事典』丸善、2020年、422-23頁
おまけ
ハリウッド映画『エジプト人』
*映画の内容は『シヌヘの物語』とは全く異なるので、注意!
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