新たな「太陽神殿」の発見!
- nozomukawai
- Dec 1, 2021
- 5 min read
Updated: Jun 25, 2022
本書→108〜110頁、図37・51
11月18日のCNNのニュースで、アブ・グラーブにある古王国時代第5王朝のニウセルラー王の太陽神殿の下から前身遺構とみられる日干レンガ製の別の神殿の遺構が発見されたとのニュースがありました。調査を実施したのはポーランド科学アカデミー地中海東洋文化研究所のマッシミラノ・ヌッゾーロ助教授で、彼によれば19世紀の考古学者は、日干煉瓦製の前身遺構をニウセルラー王の「太陽神殿」の初期段階の遺構であると解釈していましたが、最近の発掘調査によって共伴して出土した土器の年代が二ウセルラー王の時代から100〜200年前の紀元前25世紀半ばであること、ニウセルラー王以前の王の名前が押印された封泥が出土していることなどから、この日干レンガ製の前身遺構は、ニウセルラー王によって儀式的に破壊された先代の王が造営した「太陽神殿」であると発表しました。ここでは、その発見の意義について解説いたします。
△太陽神殿の造営
第5王朝初代のウセルカフ王は、サッカラのジェセル王の階段ピラミッド複合体の北東角の隣に自らのピラミッドを造営しました。これは古王国時代の創始者であるジェセル王との結びつきを示したものとみられます。ウセルカフ王のピラミッド複合体では、葬祭殿がそれまでのように東に位置するのではなく、ピラミッドの南側に位置し、日中は太陽の光が中庭を照らすような構造になりました。また、彼はサッカラの北に位置するアブ・シールに太陽神殿を造営しました。これらのことは、太陽神ラーの位置付けが強化されただけでなく、王はもはや太陽神ラーを父と崇め、息子として君臨するようになったことを示唆します。ギザに巨大なピラミッドを造営した第4王朝では、王は太陽神ラーの化身としてみなされましたが、第5王朝では王はピラミッドを造営するだけでなく、太陽神ラーのための大規模な神殿を造営し、自らのファラオとしての正統性を誇示したのです。
本書では、ウセルカフ王がなぜアブ・シールに太陽神殿を造営したのかは明らかではないと記述しましたが、一説によるとアブ・シールは、最もサッカラに近く太陽神ラーの聖地ヘリオポリス(現在のカイロのマタレイヤ地区)の太陽神殿を望むことができる場所であったため、この地にウセルカフ王が太陽神殿を建設したと推測されています。そして、その後第5王朝の王はアブ・シールにピラミッドを造営しました。実際、ギザの3大ピラミッドを直線で結ぶとヘリオポリスに繋がり、クフ王の長男ジェドエフラー王のあるアブ・ロアシュはヘリオポリスのほぼ真西に位置していることから、ピラミッドや太陽神殿の位置は太陽神ラーの聖地ヘリオポリスを意識して造営されたと言っても過言ではありません。
△『アブ・シール文書』と「太陽神殿」
アブ・シールのネフェルイルカーラー王の葬祭殿から出土した所謂『アブ・シール文書』と呼ばれるパピルス文書によれば、少なくとも6基の「太陽神殿」が存在していたことが知られています。しかし、これまで考古学的に遺構が確認されている「太陽神殿」は、アブ・シールのウセルカフ王の太陽神殿とアブ・グラーブのニウセルラー王の「太陽神殿」の2基でした。「太陽神殿」と関連があるたくさんの官職称号やその他の記録から、「太陽神殿」は国内で最も重要な施設だったことが明らかです。王の葬祭殿で捧げられた供物は太陽神殿を経由しました。このことは『アブシール文書』から知られています。
これまで、ヌッゾーロ博士を中心に人工衛星画像の解析などで失われた4基の「太陽神殿」の位置の探査が行われてきましたが、ニウセルラー王の「太陽神殿」の前身遺構の再調査と出土した考古資料の年代からニウセルラー王が先代の王の日干レンガ製の「太陽神殿」の遺構を破壊し、自らの「太陽神殿」を石材で造営したという説は説得力があると考えます。しかし、前身遺構が1人の王の物であったのか、あるいは複数の王が再利用を続けたのかはまだ明らかにされていません。今後の発掘調査の動向が注目されます。
古代エジプトでは、神殿は増築されることがありますが、王に関する記念建造物は基本的に一度しか使われませんでした。特にセド祭(王位更新祭)を行う祭殿は日干レンガで造営され、祝祭が終われば破壊されたと考えられています。アビドスに造営された初期王朝時代の「葬祭周壁」(本書60頁、図30)の発掘調査からも意図的に入口が日干レンガで封鎖された痕跡があり、これも王の没後は使用されなかったこと意味します。日本の天皇の祭殿、例えば大嘗宮は大嘗祭のために造営され、終了とともに解体されます。古代エジプトのファラオの建造物も王の代替わりによって古いものは使用されなくなり、新たな祭殿が造営されたのです。現在我々が便宜的に「太陽神殿」と呼んでいる遺構も王のセド祭(王位更新祭)とも深い関わりがあったと考えられます。ニウセルラー王の太陽神殿の壁面には同王のセド祭(王位更新祭)が浮彫で表されています。「太陽神殿」の中にはベンベン石と呼ばれる巨大な太めのオベリスクがあり、これはヘリオポリスの原初の丘を表すため、「太陽神殿」と呼ばれてきましたが、太陽神の息子として地上に君臨する第5王朝のファラオたちの王権に関する儀礼を行う空間でもあったのかもしれません。この辺りについては、さらに検討を重ねていく必要があるでしょう。

アブ・グラーブのニウセルラー王の太陽神殿 ©︎ Nozomu Kawai

『古代エジプト全史』110頁、図51
関連ウェブサイト
失われた4500年前の「太陽神殿」、考古学チームが発見か エジプト
参考文献
マーク・レーナー(内田杉彦訳)『図説 ピラミッド大百科』東洋書林、2000年
Comentários