新王国時代のネクロポリス
- nozomukawai
- Jun 25, 2022
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→147〜220頁、図73
△はじめに
本書では、王朝時代の歴史は政治史の流れを解説することに主眼が置かれていたため、文化史については不十分な部分があります。そこで、今回は新王国時代の主要な墓地として発展したテーベ西岸とサッカラ遺跡について解説したいと思います。
△新王国時代のテーベのネクロポリス
テーベ西岸では、古王国時代から上エジプト第4ノモス(州)の州侯の墓が造営されていましたが、第1中間期に第11王朝の根拠地となり、この頃に西岸のアル=ターリフ地区に巨大なサフ墓(柱が列をなすような墓)の形式の王墓が造営され、その周辺に貴族の墓が発展しました。同じ王朝のメンチュへテプ2世によりエジプトが再統一され、ディール・アル=バフリー(図1)に葬祭複合体が造営されると、ディール・アル=バフリーがテーベ西岸のネクロポリスの中心として発展していきました。
ここはメンチュへテプ2世の葬祭複合体が建設される以前からハトホル女神の信仰があり、その神殿は篤く崇拝されていました。崖の切り立つ涸れ谷の奥部にあるディール・アル=バフリーは、崖が雌牛ハトホル女神の姿に見立てられ、涸れ谷の奥部の景観も女神の崇拝にふさわしい場所として古代エジプト人に認知されたのだと考えられます。ちょうど対岸にあるテーベの神、アメンの大神殿があるカルナクに面しており、カルナクのアメン神殿とディール・アル=バフリーのハトホル神殿を結ぶ東西の軸線がテーベの聖なる空間の中心軸として位置付けられました。
ディール・アル=バフリーは古代エジプト語で「ジェセル・ジェセルウ」と呼ばれ、その意味は「神聖なるものの中で最も神聖なるもの」であり、ここがテーベ西岸のネクロポリスの中心となりました。
中王国時代以降ディール・アル=バフリーでは「谷の祭」という祝祭が毎年行われ、カルナクのアメン大神殿からアメン、ムウト、コンスの神像を載せた船の形をした神輿がディール・アル=バフリーに運ばれました。このお祭りは、単にアメン神を中心とするテーベの三柱のための祭りではなく、人々が西岸のネクロポリスに眠る死者と交信することができた貴重な祝祭でした。人々はこの祭りの間に墓の礼拝堂を訪れ、その前庭部で先祖と飲食を共にし宴会を行ったとされています。これは日本のお盆にも似ていると思います。

図1.テーベ・ネクロポリスの中心地、ディール・アル=バフリー、左にメンチュへテプ2世の葬祭複合体、右にハトシェプスト女王葬祭殿が見える。 ©︎ Nozomu Kawai
第2中間期第17王朝では、王墓はディール・アル=バフリーの北に位置するドゥラー・アブー・アル=ナーガ地区に造営されたため、このあたりを中心に墓地が展開されました。第17王朝の王墓は、ピラミッドを頂く上部構造を持つものでした。しかし、新王国時代第18王朝になると、アメンへテプ1世はそれまで同じ位置にあった王墓と葬祭殿を分離し、ピラミッドも造営しなくなりました。そして、再びディール・アル=バフリーに葬祭殿を建設したハトシェプスト女王がその背後に位置する「王家の谷」の崖下に長い通廊を持つ墓を造営しました。これが「王家の谷」の始まりであり、以降第20王朝の終わりまでの約500年間に歴代のファラオの墓は穿たれたのです。
アメンへテプ3世とアイは、メインの「王家の谷」である東谷ではなく西谷に造営されましたが、現在までに番号を持つ墓が65基存在しています。貴族の墓は、北はドゥラ・アブー・アル=ナーガから南はクルナト・ムライまでの地域に造営されました。
第18王朝の初期には、貴族の墓は仕えた王の葬祭殿の背後の地域に造営される傾向がありましたが、墓が増加すると良好な岩盤がある場所が少なくなり、必ずしも王の葬祭殿の付近に造営されるということでもなくなりました。また、アメンへテプ3世の治世になると貴族の中でも宰相クラスの墓は大型化し、良質の石灰岩が存在するアサシーフやシェイク・アブド・アル=クルナの標高の低い場所が墓地として選ばれるようになりました。図3、4のアメンへテプ3世から4世の時代の宰相ラーメス(ラモーゼ)の墓はその代表的な例です。

図2.王家の谷 ©︎ Nozomu Kawai

図3.シェイク・アブド・アル=クルナにある宰相ラーメス(ラモーゼ)の墓(アメンへテプ3世〜4世の治世)©︎ Nozomu Kawai

図4.ラーメス(ラモーゼ)の墓の葬送の図 ©︎ Nozomu Kawai
アマルナ時代に王と貴族の墓がアマルナに造営されるようになると、テーベ西岸のネクロポリスも放棄されましたが、ツタンカーメン王の治世に再び貴族の墓が造営されるようになりました。しかし、首都がアマルナからメンフィスに遷ると、サッカラが当時の貴族の主要な墓地として発展するようになりました。
一方で、王墓を造営していた職人の村ディール・アル=マディーナは、アメンへテプ1世の治世に開村し、徐々に発展していきました。ホルエムヘブ王の治世には職人が組織化され、これを受けて「王家の谷」の王墓の装飾も増加の傾向をたどりました。職人自身の墓でも、埋葬室に美しい壁画が施されるようになりました。
このディール・アル=マディーナの職人の村はかなり保存状態の良い状態で発掘されたために、古代エジプト社会の一面をしめす稀有な例となっております。村の家屋からは主人や家族の名前が記された遺物が出土しているため、住居の家主や家族構成もわかっており、出土したオストラカやパピルスの文字史料からは、村の中の人間関係までもが詳らかに明らかになっています。既婚者の不倫や人物の対立関係などの出来事もわかっています。またこの村の職人達によって、記録されている最古のストライキがあったことも知られています。

図5.王墓造営職人の村、ディール・アル=マディーナの遺構 ©︎ Nozomu Kawai

図6.センネジェムの墓の「葦の野」、ディール・アル=マディーナ ©︎ Nozomu Kawai

図7.パシェドゥの墓。中央にオシリス神が描かれている。ディール・アル=マディーナ ©︎ Nozomu Kawai
△新王国時代のサッカラのネクロポリス
サッカラは、メンフィスの西側の砂漠に位置する広大なメンフィス・ネクロポリスの中心的な墓地として、初期王朝時代からグレコ・ローマン時代までの約3000年間に発展しました。特に最古のピラミッドである階段ピラミッドの造営に始まり、古王国時代には南北に王のピラミッドが建設され、その周囲を囲むように高官のマスタバ墓が数多く造営されました。古王国時代の終焉とともに造墓活動は減少しましたが、新王国時代に再び王都となったメンフィスの主要墓地として発展したとみられます 。
サッカラ遺跡における新王国時代の墓地は、前述のように、これまでに①ウナス王のピラミッドの参道の南に位置する第18王朝から第3中間期に年代づけられる墓地、②サッカラ台地の東側に位置する猫の集団墓地、ブバスティオンに位置する第18王朝中期から第19王朝に年代づけられる墓地、そして、③テティ王のピラミッドの北側に位置する墓地の主に3カ所が知られている。以下、それぞれの主要な墓地の概要について解説します。
① ウナス王のピラミッド参道の南の墓地
1843年にK.R. レプシウスの調査隊が、ウナス王のピラミッドの参道の南で新王国時代の墓地を確認していましたが(Lepsius 1897-1913: I.) 、その後100年以上にわたり考古学的発掘調査は実施されませんでした。この場所には、前述のテーベのネクロポリスの新王国時代の墓として知られる岩窟墓の形態ではなく、地上に小型の神殿形の上部構造を持ち、岩盤にシャフトを穿って埋葬室をしつらえた所謂「トゥーム・チャペル」の墓形態を持つ墓が造営されました。
オランダのライデン古代博物館には、この墓地に墓が存在するとみられた第18王朝のトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)王の将軍ホルエムヘブや財務長官マヤといった高官の墓由来の遺物を収蔵しており、1975年にそれらの墓の再発見を目的として英国エジプト調査協会と合同で発掘調査を開始しました。
調査隊は、ホルエムヘブ、マヤのみならず、同時代の後宮の監督官パイ、アメン神の牧牛長イニウイア、ラメセス2世治世下の王女ティアと夫のティア、アクエンアテン王からツタンカーメン王の治世のメンフィスのアテン大司祭メリネイト(メリラー)らの墓を発見しています 。その北東部では、カイロ大学の調査隊によってラメセス2世の宰相ネフェルレンペト、財務長官ネフェルレンペトの墓をはじめとするラメセス2世の治世の高官墓が数多く発見されています。さらに、カイロ大学の調査隊の調査地区の東側に位置するジェレミア修道院址付近からは、アメンへテプ3世治世のメンフィスの大家令、アメンへテプ・フイの墓が位置したと考えられています。これまで調査された当該地区の新王国時代の墓は、ごく一部にすぎず、現在も発掘調査が継続されています。

図8.ウナス王のピラミッド参道の南の墓地、中央はホルエムヘブの墓、サッカラ ©︎ Nozomu kawai

図9.ホルエムヘブの墓、サッカラ ©︎ Nozomu Kawai

図10.財務長官マヤの墓の埋葬室の彩色レリーフ、サッカラ ©︎ Nozomu Kawai
② ブバスティオン
ウナス王の河岸神殿から北へ約500mの位置には南北100mの規模の巨大な涸れ谷があり、入江状の地形が形成されています。テティ王のピラミッド葬祭殿東側からこのワディの北側にかけては、末期王朝時代以降にアヌビエイオンとブバスティオンという犬猫の聖獣の神殿が存在し、サッカラにおける一大宗教中心地となっていました。先日報道された250基の木棺が発見されたのはこのブバスティオンです。当時、このブバスティオンの北側の崖はバステト女神の聖獣である猫のミイラの墓所でしたが、それは新王国時代の岩窟墓群を再利用したものでした。
ブバスティオンでは、フランス国立科学研究センターのアラン・ジビーが1980年代より調査を行なっており、これまでにアメンヘテプ3世の宰相アペルエル(アペリア)、アメンへテプ3世時代の絵師トトメス、トゥトアンクアメン王の乳母マヤ、アクエンアテン王の治世のメンフィスのアテン神殿の書記ハティアイ、ラメセス2世時代の外交官ネムティメスらの墓が発見されている。なお、この地区にあるトトメス3世とハトシェプスト女王の共同統治時代のネヘシの墓は、これまで確認された中で最古のサッカラの新王国時代の岩窟墓です。

図11.ツタンカーメン王の乳母、マヤの墓のレリーフ、サッカラ ©︎ Nozomu Kawai

図12.ネムティメスの墓(ラメセス2世の治世)サッカラ ©︎ Nozomu Kawai
③ テティ王ピラミッド北墓地
テティ王のピラミッドの周辺には、前述の2箇所よりは比較的小規模ですが、新王国時代の墓が多数存在することが知られています。テティ王のピラミッドの周辺からは、第18王朝後期から第19王朝に年代づけられる、同王を神格化し、崇拝する人物が描かれたステラや彫像が出土しており、この時代にテティ王が「プタハ神に愛されし者」という形容辞を与えられ、崇拝の対象になっていたことが知られています。
おそらく、このテティ王信仰の隆盛から第18王朝にこの地域に新王国時代の墓地が形成されたと考えられていますが、私はむしろメンフィスの主神プタハの聖獣であるアピスが埋葬されたセラペウムへの参道を中心に新王国時代の墓地が発展したのではないかと考えております。この地域の新王国時代の墓は、ウナス王の参道の南側の墓地と同じ「トゥーム・チャペル」の形態をしていますが、比較的規模が小さく、古王国時代のマスタバ墓の天井、あるいはマスタバとマスタバの間に人為的に粘土質の石灰岩、タフラと石灰岩チップを地業として詰めて硬化させ、その上に上部構造を造って、その部分は石灰岩の切り石で壁を作り、さらに下の岩盤層を掘削してシャフトと埋葬室をしつらえています。

図13.テティ王ピラミッド北墓地、古王国時代のマスタバ墓の上に新王国時代の日干レンガ製の「トゥーム・チャペル」が見える。中央よりや左。サッカラ ©︎ Nozomu Kawai
以上の3箇所がこれまでサッカラで確認される中心的な新王国時代の墓地ですが、近年それ以外の新王国時代の墓が確認されています。例えば、現在のアブ・シール村に隣接する北サッカラの台地の東側の崖下には、ラメセス2世時代の高官ナクトミンらの墓が確認されており、日本の調査隊が調査を行っているアブ・シール南丘陵遺跡頂部では、ラメセス2世の王子カエムワセトの娘とみられるイシスネフェルトの墓が発見されました。
前述のように、サッカラの新王国時代の墓地については、欧米の博物館、美術館に収蔵されている膨大な記念物、副葬品などの遺物の本来の出土地が不明であることから、未発見の場所が存在することが指摘されています。
また、メンフィスのプタハ神の神官の墓地やサッカラに埋葬されたとされる王族の墓の所在も明らかではありません。例えば、アメンヘテプ3世の長子でプタハ大司祭であったトトメス王子や、ラメセス2世の第2王妃でカエムワセト王子やメルエンプタハ王の母であるイシスネフェルト王妃の墓の所在も不明です。このように、サッカラには、依然として新王国時代の未発見の墓地が埋蔵されています。
以前、ファンダイクは、第 18 王朝のアメンヘテプ 3 世の治世におけるプタハ・ソカル・オシリス信仰の隆盛とツタンカーメン王の治世における高官による王墓地との分離により、メンフィスのネクロポリスが彼らの墓地として選ばれたとし、それ以前に第18王朝に墓が存在しないと主張していました。マーティンは、新王国時代にメンフィスが重要な行政の中心地であったにもかかわらず、その墓地であるサッカラでは新王国時代の墓があまり発見されていないと指摘し、北サッカラの台地の東側の崖に新王国時代の高官の岩窟墓群があると推測しており、そこに所在が不明な第18王朝前期から中期にかけての墓地が存在する可能性を指摘しました 。また、ゲスラー・レールは、トトメス3世の治世にメンフィスが王都になったにもかかわらず、上記のテティピラミッド北墓地やウナス王のピラミッドの参道の南側からアマルナ時代以前に年代づけられる墓が存在しないのは驚きであるとし、サッカラの他の地域に第18王朝のアマルナ時代以前の墓地が存在すると推定しています。このようなことから、私自身も北サッカラの台地に新王国時代の主要な貴族の墓が埋蔵されているのではないかと考え、調査を行なっています。
参考資料:
近藤二郎『エジプトの考古学』同成社、2012年
河合望「サッカラ遺跡における新王国時代の墓地の分布と新たに発見された墓地について」吉村作治(編)『オシリスへの贈り物:エジプト考古学の最前線』雄山閣、2020年、30-39頁。
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