第1中間期のエジプトの最新学説
- nozomukawai
- Jan 26, 2022
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Updated: Jun 25, 2022
本書117〜122頁
△第1中間期とは
「第1中間期」という名称は、古王国時代と中王国時代という安定期の間の混乱期という意味合いで付けられたものです。この時代は、これまで社会の混乱、経済的苦難、ナイル川の氾濫水位の低下といった自然環境の悪化、飢饉、行政の混沌化、王権の衰退といったネガティヴな状況に特徴づけられていました。
△第1中間期と気候変動
気候学者の研究によると、紀元前2200年頃から2100年頃までの約100年間、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの広範囲で降水量の減少や寒冷化などの異常気象であったということです。環境の変化とエジプト文明の関係について研究を進めているロンドン大学名誉教授のフェクリ・ハッサンは、ちょうど同じ時期にファイユームのカルーン湖の水位が極端に低下したと報告しています。この時期は、古代エジプト古王国時代の第6王朝から第1中間期までの期間にあたり、ハッサンは、ナイル川の水位の低下が古王国時代の崩壊の大きな原因の一つであったと唱えています。しかし、アメリカの考古学者ナディン・メーラーは古王国時代の終わりに急激なナイル川の水位の低下はなかったと主張しています。
△第1中間期は衰退期ではない?
近年では、第1中間期のエジプトはいくつかの地域においては経済的な衰退期ではなく、富の分配が変わったものと解釈されています。つまり、古王国時代には王権に富が集中していたものが、第1中間期になると地方に富が分配されたということです。王権にとっては、第1中間期は確かに「危機」だったと言えるでしょう。それに対し、地方豪族の力は増大したのです。多くの地域では古王国時代と同じようなノモス(州)を治める単なる州侯が存在しましたが、いくつかのノモスを束ねて支配する大州侯が出現しました。
本文には登場していませんが、その中でも傑出した大州侯として上エジプトのモアッラを中心に支配していたアンクティフィという人物がいます。ピラミッドの形をした岩山に穿たれたモアッラのアンクティフィの岩窟墓の壁画には、ネフェルカーラーという名の王の名が記されていますが、この王が第1中間期の王だったかは不明です。アンクティフィは元々上エジプト第3ノモス の州侯でしたが、第1ノモス と第2ノモス も支配下に置き、テーベに侵入を試みた人物です。アンクティフィの墓に記された彼の伝記には、ナイル川の水位の低下により上エジプトで飢饉があったことが記されています。
「・・・上エジプト全土で飢饉が起こり、人々は彼らの子供を食べている。しかし、私はこのノモスでは誰として飢えで死なせるようなことはしなかった。・・・」
この伝記は、気候変動により飢饉が起こり、第1中間期は危機的な状況に直面していたことを物語る証拠と捉えられていましたが、これは歴史的な事実を記したものというよりは、文学的に定型化された主題を記したものであると解釈されるようになってきました。そして、ここではかつてのような王ではなく州侯が地域の社会の安定を維持する役割を持っていたと考えられます。
△第1中間期を物語るとされた文学作品の評価
第1中間期には、行政文書、書簡、王碑文などの史料が残っておらず、歴史を叙述するのは極めて困難です。このため『イプウェルの訓戒』と『メリカラー王への教訓』という2つの文学作品が第1中間期の状況を示すものとして言及されてきました。『イプウェルの訓戒』では、エジプトが混乱に陥った状況が次のように語られている。
「見よ、未だかつてなかったようなことが起きた。王が貧しき者たちによって連れ去ら
れた・・・・。見よ、ついにこのような事態になった。少数のおろかな者たちによって王権が略奪された・・・。見よ、国の貧しき者たちが富豪となり、かつての財産家が無産者となっている・・・。」(一部抜粋)
『イプウェルの訓戒』では、このような混乱を作り出したのは、神の責任であると神にもその責任はあるとしています。絶望的な気分になった古代エジプト人は、混乱の中で人生に価値を見出そうとせず、苦しみ多い現実世界に絶望して死による心の安らぎを求める厭世観や、反対に、明日のことを考えずにこの世を思い切り楽しもうとする享楽主義の考え方が広がったといいます。このような状況にたいし、王は道徳的な行いが義務であり責任であることを強調しました。人生の真の価値は物質的な富ではなく、正しい行動にあり、死者があの世に行くには神の前で裁きを受け、生前の行いが正しいと認めなければならないと諭しています。この文学作品は第1中間期の状況を反映したものとされてきましたが、近年の研究によりこの文学作品の制作年代は中王国時代第12王朝後半であることが指摘されており、特に第1中間期の状況を記したものとは断定できないとのことです。
『メリカラー王への教訓』は、ハイデルベルグ大学のヨヘム・クアックによると中王国時代第12王朝のセンウセレト1世の治世に書かれたもので、必ずしも第1中間期の状況を反映したものではないとしていますが、他の研究者は『メリカラー王への教訓』は第1中間期の第10王朝のメリカラー王の父ケティ3世によって書かれたもので、歴史的な信憑性は高いとしており、評価が分かれています。
△地方都市やネットワークの発達に注目
第1中間期については本文に書かれているように、古王国時代のピラミッドのような巨大建造物の造営がなくなったことは、社会システムの崩壊を示唆しますが、社会の底辺では文化的伝統を維持し、上エジプトの地方都市では活力ある社会発展がみられました。ソルボンヌ大学のモレノ・ガルシアは、第1中間期はエジプトの社会と文化の崩壊というよりは、活動の中心とダイナミズムの(一時的な)移動によって特徴づけられると主張しています。つまり、古王国時代の王宮を中心とする社会から地方都市を中心とする社会への変化があったということです。地方都市では、例えばナディン・メーラーらの発掘調査によりこの時期に上エジプトのエドフで市街地や街路が拡大したことが考古学的に確認され、交易も拡大し、前期青銅器時代および中期青銅器時代の地中海、西アジア、ヌビアといった周辺地域での国際的な交易ネットワークの一部に組み込まれたと考えられています。

モアッラのアンクティフィの岩窟墓
モアッラのアンクティフィの墓はこちらをご覧ください。
『イプウェルの訓戒』と『メリカラー王への教訓』の和訳については、以下を参照してください。
杉勇・屋形禎亮『エジプト神話集成』ちくま学芸文庫、2016年
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